講義レポート

神社学的「盛り塩」を考えた先に思うこと

コラム 神社学 中村真教授

盛り塩

 

街中でお店の入り口などに三角にとがった盛り塩をよく目にすることがある。

魔除け、清め、縁起物、風習・・・。

謂れはいろいろとあろうが、神棚にも同じように塩をお供えするのをご存じの方も多いだろう。僕はこの盛り塩の意味を「清める」というより「穢れを祓う」役割を果たすものだと認識している。

清めるのは穢れを祓わねば成り立たないものだし、そもそも「穢れ」という言葉は「汚れ(けがれ、よごれ)」の意味ではなく「気が枯れる」という意味合いで使われ始めたそうで、元気がなくなった、生命力の低下というのが本来の意味。そして塩は多くの生物にとって生命を維持するために必須のもの。

人は生まれた瞬間こそ清明き(あかき)存在である赤ん坊として生まれ、命を重ねるごとに「穢れていく」とされている。だからこそ神様にご挨拶する前に、その穢れを祓うべく手水社で手を洗うわけだが、その穢れを払いのけた状態を維持するために、お店の前などに塩を盛り、その力をもってして「穢れ払い=エネルギーチャージをする」ということだったのではないかと僕は考えている。

みなさんもお通夜やお葬式から帰ったあとに身体に塩をふったことがあるはずだ。穢れを祓い身を清める・・・とは神道の考え方で、その起源は日本最古の書物と言われる古事記に求めることができる。ちなみに仏教においては死は忌み嫌うものではなく、したがって穢れとも考えないようだが・・・。

神社

古事記によれば、この世に天と地が生まれたときに天上世界である高天原に幾人(本来神を数える単位は“柱”とされる)かの神様が誕生する。その後、男女の神々が生まれその最後に、伊弉諾(以下:イザナギ)、伊弉冉(以下:イザナミ)の夫婦神が登場する。この二柱の神は、どろどろしたおぼろ豆腐のようなモノを固めて日本の国土をつくり、男女の交わりを表現しつつたくさんの神々を生み出していく。

ところがイザナミが最後に産み落とした神こそ火の神様とされる迦具土神(以下:カグツチ)であり、その出産の際にイザナミは全身に大やけどを負って命を落とし黄泉の国へ行ってしまう。黄泉の国とは穢れの空間で、命を落とした身体は当然腐り果てていく。その醜く変わり果てた姿を愛する人に見られたくないイザナミは「絶対に会いに来ないでほしい!」と死の間際に伝えたはずなのに、それでもイザナギは会いに行ってしまう。

愛する相手に醜い姿を見られたくない女心も、「来ちゃダメ!」と言われると、ますます会いに行きたくなる男心も、古代の神様も現代の人間もあまり変わらない。しかしイザナギは黄泉の国で変わり果てた妻の姿を見ると、ショックを受けて最終的には逃げ出してしまうのだが・・・。

イザナミとイザナギ。ともに、「誘う(いざなう)」+「身」と「気」と考えると、「身」は実体を伴い、「気」は目には見えないエネルギーであるとも捉えることができる。

身を伴う「イザナミ」の身体は黄泉の国で腐っていくが、目に見えないエネルギー(かもしれない)イザナギは黄泉の国においても身体が腐ることはなく、「気」が少々疲れてしまう、つまり「気が枯れる=穢れる」状態になってしまう。

古事記によれば、黄泉の国から戻ったイザナギは、穢れた身を祓い清めるために〈筑紫日向橘小戸阿波岐原〉で≪禊≫をする。現在、お葬式などの後に塩を撒くのは、この神話と同じく「死」という穢れを祓い清めることに他ならない。神社で正式参拝やご祈祷を受ける際に、神主さんはまず我々に対し≪修祓の儀(しゅばつのぎ)≫というものを執り行う。その際に奏上される祝詞〈祓詞(はらえことば)〉に注意深く耳を澄ましてほしい。その祝詞こそここで紹介したイザナギの黄泉の国からの禊祓の神話がもとになっているのだ。

ちなみに、黄泉の国から無事に帰ってきたイザナギの行動より、黄泉の国から帰ってきた→黄泉から帰る→蘇るという言葉が生まれた。

祓詞は祝詞の一種だが、祝詞という言葉にも本来の意味がある。もともとは「祝詞=伝える」の意。昔は神様の祀りごとの際、神様の言葉を聞きそれを民に伝える役割の人がいた。今風にいえばシャーマンであり、もっとわかりやすく言えば「天皇陛下」のことだ。天皇陛下とは「天皇」という神の言葉を民に伝えるために、その階下にいて神と人をつなぐ役目の意味である。余談だが、ゆえに天皇陛下を略して表現する際は「天皇」ではなく「陛下」が正しいとされている。神の言葉を伝える際に「神様がこのようにおっしゃっている」という意味で「神がのりおる」と表現し、それが「祝詞(のりと:伝える)」となったといわれている。

今では逆に、神主さんを通して感謝やお祝いの気持ちを捧げることを祝詞と言っているが、それは本来「寿詞(よごと)」と言う別の言葉で表現されていた。同様に現代「天皇陛下」を現人神とし神様そのものとして捉えている現状がある。

言葉は生き物であり、時代によって、それを使う人によって変わっていくもの。何が正しく、何が本当なのかというものは実は曖昧なものなのかもしれない。同じように神様にまつわるルールも、時代によって、人によって大きく変化してきていると言えるのではないだろうか。

それならばこの国の神様とともに暮らす「随神道(かんながらのみち)」においても、時代や人が作ったルールを守ることだけに捉われず、本来いちばん大切な「恐れ敬い、生きていることに感謝する心」を持ち毎日を過ごすことに重きを置くほうが、僕にとっては自然に思えてならない。

盛り塩

text:神社学 中村真教授

担当講義:神社学
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