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講義レポート

神社学的・目に見えないもの

教授コラム 神社学 中村真

いつもいつも思うこと。

大事なものって目に見えないことが多くはないだろうか?

「小さなころから、人を見るときには外見で判断しちゃダメ、内面が大事なんだ!」とおそわってきた。そこで言う内面とは、その人の考え方や心持ちから現れる行動や思考のことかもしれないな、と思いながらも、外見は目に見えるが内面はなかなか目に映るものではない。

「きれいごとと笑われるかもしれないが、お金よりも心のありようが大事だ!」とも言われてきた。お金は目に見えて、欲しいと思う物質的なものを得ることはできる。でも心のありようって、どうやったって簡単には目には映らない。

 

 

曇った日の夜、夜空に星を拝むことはできない。その雲の先にちゃんとあるのに、星が出てないね、と表現し、その先に存在する星に思いを馳せることはあまりないんじゃないかな。

空気は目に映らない。でもこの空気がなきゃ、僕らは呼吸すらままならず、少しも生きていくことができない。

愛情は目に見えない。これもその先の行動を読み取って感じることだけど、「はい。これが僕の愛情です!」といって渡すものではない。例えばそれを、プレゼントという形に変えたとしても、それは物質的にはモノであり、愛情を表現した代替品にほかならない。お金やモノをふんだんに与えるのが愛情では決してないと思っている。

僕は今も目の前にある(見えている)パソコンに向き合って仕事をしている。もちろんこのパソコンが壊れたら困っちゃうし、ひととき、仕事にならず収入にも影響が出る。だから目に映るものが必要ないってことを言いたいわけじゃない。生きていくためにはもちろんお金も必要だし、そのお金があってはじめて僕は食材を購入し、ご飯を食べて、洋服を買っておしゃれ(でもないけど)もしている。とっても大事なことなんだけど、でも買い続けなきゃならないという不思議もある。

現代社会に生きる僕にとってはお金は僕の身体に流れる血液のように思っている。生きていく以上、必要なもの。できればきれいな血が流れてくれたほうがいいな、とも思っている。けど、僕の身体に流れる以外の血液を、いざという時のためにたくさん輸血パックをもっていても、使わないなら、その時、必要としている人に流れたほうがいいとも思う。

必要である、ということと、本当に大事なこと、とは同じようで少し違うのかもしれない。

「日本各地の大自然こそ神様そのものだ!」と本気で思ってみても、目に映る姿は自然そのままであり、そこに神様の存在を感じるか感じないかによって、目に映るものだけで判断するか、その先の想いを顕在化させるのかの違いが生じる。

どっちが正しいなんて言うつもりはないんだけれども、本当に目に映るものだけが世の中のすべてだったら、なんか寂しいなと。

目に見えないものに思いを寄せて、そのたくさんの存在に守られて僕らは生きている、と思えたほうが、僕の心は豊かでいることができる。

悲しいことだけど、今の日本は目に見えない新型コロナウィルスの存在に右往左往している。目に見えない脅威を感じる毎日が生み出したものは、うつる危険もさることながら、知らず知らずに人にうつしてしまうかも、という他者への思いやりから発生する新しい生活様式だとするならば、目に見えないものの存在が同様に目に見えない思いやりを生み出したともいえるのかもしれない。なのにまだ、目に見える「自粛してない人」「マスクしてない人」などへの攻撃は止まらない。自粛しない、マスクしない人たちにも、またそれを注意のつもりで攻撃してしまう人たちにも、いまこそ他者を思いやる気持ちを考えてみてほしい。

そろそろ、みんなで目に見えないものの存在に思いを馳せてみてはどうだろうか。

祈りはそのもの、目に見えるものではない。目に見えない思いを自分以外に捧げる行為。

目に見えるお金の交換で成り立つ世の中もわかりやすくていいのだけれども、目に見えにくいけど存在する思いやりが生み出す行動価値の交換で成り立つ社会に、僕は今日も思いを馳せている。

text:  神社学教授  中村真



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