しばらくの間、海外を旅して戻ってくると、「あたりまえの日本」に感動することがある。
たとえば美味しい日本食、例えば清潔なお手洗い。治安が良いのも、間違いなく「あたりまえの日本」の良さの一つ。また、「○○が必要!」となったとき、必ずどこにでもあるコンビニエンスストアの存在も、安心感のひとつなんだろうともいえる。どんな街にもあるし、いつでも開いていて、困った時には頼りになるけれど、誰でも気軽に足を運べる。
ちょっと頼れる存在が必ず近くにあるというのは、まぎれもない安心感。僕にとって、「神社」はその安心感そのもの。まぎれもない心のよりどころになっている。
「神社に行くのは初詣とか、厄よけとか、何かお願いごとがあるときくらいかな?」
平均的な神社のイメージとは、こんなものだと思います。しかし神社というのは実はコンビニより数が多い。どんな街にもあるのはもちろんのこと、「人も住まない山奥にもある」という点では、コンビニ以上かもしれません。
「日本の神さまって言われても、よくわからない」
「なんか畏(ルビ:おそ)れおおくて、近づきにくいんだよね……」
「神社って、縁結び以外は興味ないし」
「えっ、宗教? そういうの、苦手です」
ぴんと来ない人、拒絶反応を起こす人が多くいるであろうことも、よくわかります。
かくいう僕がそうでした。一〇代から二〇代にかけては海外に魅せられ、世界中を旅していました。日本のよさを改めて考えることなど、いっさいありませんでした。
放浪ののちに音楽やイベント関係の仕事に就き、スピリチュアルとはほど遠い暮らしを続けていました。
「神さま」なんてものは、畏れおおいどころか、自分にはまったく関係ないと思っていたのです。考えることすらなかったので、「よくわからない」とも思いませんでした。まるで縁がなかったと言っていいでしょう。宗教にも当時は関心がありませんでしたし、今でも特定の信仰を持ちません。宗教としての神道信者でもなければ仏教徒でもない。ましてや新興宗教とも関係がない。キリスト教もイスラム教も、ごく一般的な知識しかありません。
しかし、世界を見て、音楽というアートの世界にふれるうちに、「人間がしあわせに暮らすための普遍的な価値観ってなんだろう?」と考えるようになりました。そのすえに辿り着いたのが、自然を大切にし、一日一日をいつくしんで暮らすということでした。やがて僕は環境問題に興味をもち、エコロジー雑誌の発行人になりました。ライフワークとして自然と暮らしのかかわりを追究しているうちに、日本の神さまの存在に気づきました。
「一粒のお米にも、トイレにも、空にも、大きな木にも、神さまが宿っている」
あたりまえのことに感謝し、あるものを大切にする。
昔ながらの日本人の「神さま」についての考え方こそ、しあわせに暮らすための鍵なのではないかと。
僕は、山の神さまに会うために、山に通いました。
滝の神さまに会うために、滝を訪れました。
生まれ育った東京で、地元を守ってくれている神さまと再会しました。
そう、神社巡りにハマったのです。
text : 神社学教授 中村真