とある奈良の民宿で、龍を目撃した。
寝ている間に降った雨をたっぷり吸いこんだ山が、深呼吸をするかのように、濃い朝霧を吐き出している。山肌を覆う霧が少しずつ晴れてくると、その奥に、すーっとたなびく雲だけが残っていた。まるで山から躍り出た龍のようだった。その光景を眺めながら歯を磨いていたぼくに、宿のおかあさんが背後から声をかけてきた。
「あら、龍が出てるじゃない!」
ぼくは「そうですね。」とモゴモゴ答えて、含みかけた水で口を漱いでから、おかあさんに向き直って聞いた。
「よく出るんですか?」「だって、ここは龍の土地だからねぇ。あなた気に入られたんじゃないかしら。」と、意味ありげな笑顔を隠そうとしない。地元に伝わる昔話や神話にはじまり、龍神が宿る磐座や滝の話題で盛り上がり、朝からいい勉強をさせてもらった。
こうしたコミュニケーションをきっかけに、ぼくの次なる登山が始まる。地域の歴史話は大きなヒントで、地元の物語を辿って山を訪ね歩くのが、ぼくならではの山との関係なのだ。無数の点を線でつないでいくような山旅が好みで、いわば“山脈”ならぬ土地の“文脈”を登っているともいえる。これが、とても楽しい。
磐座や巨木に古の山の信仰を感じたり、合戦地や山城に兵どもの夢の跡を訪ねる登山は、古都に神社仏閣や美術館を巡るような旅とどこか似通っている。絵画や映画の舞台を訪ねてみる山歩きもいい。ぼくはこのような文化的な山旅のスタイルを「低山トラベル」と名付けて活動し続けている。“こっち系”が好きな旅人たちと、低山里山歩きを通して知的好奇心を刺激するような登山の楽しみ方を分かち合いたいのだ。
登山とはこうである、という固定観念からはいったん離れて、自分が心地よい山との距離感を想像してみよう。目を閉じて、心を開けば、あなたは自由だ。登山とはまったく異なる(でも自分の関心がある)テーマを掛け合わせてみるのもよい。ぼくなら、登山×歴史探訪。あるいは登山×文化体験、といった具合だ。そうやって自らに由る思考を始めるところから、あたらしい登山が、もう始まっているのだ。
(Words: 大内 征 , 担当講義: 東京・日帰り登山ライフ )