「やりたいことが見つからない」そう相談されることがよくあります。学生はもちろん、すでに社会的な地位を築いたベテランまで、そうおっしゃるのです。
スポーツ選手や歌手のように「小学生の文集にすでに夢を書いていた」人は一握りですね。その他9割のぼくたちは「わからないなぁ」と迷いながら大人になっていきます。「人に会え、旅に出ろ、本を読め、瞑想しろ」などとアドバイスを受けながら。
「やりたいことを見つけるには?」と聞かれた時、そもそも本当にその問いが重要なのかを考えます。やりたいことって必要なのでしょうか? 「やりたいことを見つけたい」は手段ですね。ではWHY、その目的は何でしょうか。幸せな人生を生きたいから、でしょうか。では、幸せな人生とは何ですか?
命が尽きる、その病床でひとりひとり丁寧にインタビューを重ねた博士がいました。死の研究家キューブラー・ロスはこう尋ねるのです。
「もうすぐ亡くなるけど、後悔していることはある? 」
もっと親を抱きしめればよかった… 他人を気にして真面目に生きすぎた… 大小さまざまな後悔が並びますが、分類するとたった3つにまとめられました。
<最期に振り返る 3つのチェックリスト>
1. 冒険したか(安全な選択に逃げず、チャレンジしたか)
2. 愛したか(他人に心をひらき、自己犠牲もいとわず与えたか)
3. 役に立ったか(自分がいたことでほんの少しでも世界が良くなったか)
あなたも自分の最期を想像してみてください。どれも、確かにそうかもしれないと思えるのではないでしょうか。
幸せな意義ある人生のために必要なのは、冒険、愛、貢献の3つ。実は、やりたいことは必須ではないんですね。「やりたい放題でうまいこと得した人生だった、しめしめ」そうやって死に際にほくそ笑む人はいないんです。
もし、やりたいことをしばらく探して見つからない場合は、違うアプローチをしてみましょう。ぼくたちは、自分で生きていると思っています。でも、本当は生かされているのです。「自分が自分が」というエゴからの視点ではなく、俯瞰して。自分を超えた大きなものに委ねてみる、人生側から考えてみてはどうでしょう。
「自分は何がしたいのか」ではなく、「人生は、自分に何をさせたいのだろうか」。
例えば、困っている人がいる。まわりを見渡すが、みんな目をそらす。だったら、自分が助けるしかありません。もちろん後ろ向きな気持ちもある。「好きでも得意でもないし、こちらにメリットもないし… 」と見過ごすこともできる。でももう一つの選択肢、何かの縁を感じてひと肌脱ぐこともできます。「自分がやらずに誰がやる!」というわけです。
天職は、英語で Calling 。呼ばれるものです。「自分が自分が」のエゴではなく、無私の心で耳を澄ますのです。「自分で見つけなきゃ」「早く決めなきゃ」と焦る必要はありません。肩の力を抜いて、コントロールを手放し、自分を差し出しましょう。
好きな人に優しくするのは、誰でもできる。余っている時に与えるのも、誰でもできる。でも、余裕がないにもかかわらず、ちょっと歯を食いしばって与えるときに、人生と目が合うはずです。フィーバーしたような高揚感はなくとも、もっと魂の深いところに一滴のしずくが静かに落ちる。
「大したことは成せなかったけど、少しばかりは良いこともした。なかなか悪くない人生だった。悔いはない。才能なんてない割に、私もよく頑張ったよな」
穏やかに胸を張れる、そんな最期になることでしょう。