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「「与えない」その行為の先に創造力を育む」本村拓人

新春クリエイティブチームコラム

創造の母とはなんだろうか?様々な議論を呼び起こしそうなといではあるが、成約や制限こそが創造やイノベーションの源なんじゃないかと僕は考えている。

 僕が記憶している限り幼少期から物心つくまでおもちゃやゲームなどであそんだ記憶も身の回りにあったことも記憶していない。僕には兄が一人いるのだが、兄は僕とは真逆でカードゲームやテレビゲームなどのツールを使いこなしながら率先して遊んでいた。友達の家にいけばバービー人形やおままごとなどで遊んでいたりもした。海外に叔母がいることもあって、一時期のお土産はアメリカ産のバービー人形を懇願するほどのファンだったそうだ。
 話の文脈から僕が玩具を否定しているように聞こえてしまうかもしれないが、そんな魂胆は全くない。むしろ適宜玩具を使って遊べるならそれに越したことはない。ここで言いたいのは、人間ものがなくても遊び道具などはいたるところにおっこちている。大切なのは、何を遊び道具とするか?どんなルールや物語の中に身の回りのあらゆるものを登場させるか?ここに創造性は潜んでいると思う。
 LEGOは最高に魅力的な玩具の一つだろう。僕もその一人だった。しかし、LEGOは少々たかくつく。今考えればLEGOはモジュール化されたブロックを自分の好きなように組み立てることができる。しかも立体的に。これほどワクワクする遊びはない。でもそのLEGOがなかったらどうするか?モジュールを正確にはつくることはできないが、当時はダンボールを持ち出してはブロックを作り、それを積み重ねることでLEGOには到底太刀打ちはできないまでも、小さなダンボールボックスを積み上げてビルや家を作るのは見栄えはわるいが、同じような行為や経験をしたいと強く思っていた当時の僕にとっては十分に満足できる遊びになっていた。結果的にダンボールをつぎはぎする技術を習得したり、立体的に物事を観察したり、他にもの周りに材料がないかリサーチをするようになったのはいうまでもない。

 ものがなくとも、幼稚園にでもなれば同い年の子達と自由に遊びを発明しては戯れる。当時一番楽しかった遊びは秘密基地の設計である。お寺や神社にはいたるところに子供達にしか入れないスペースがスペースが存在する。ご本蔵様が置いていある境内の中に忍び込んではダンボールや落ち葉などをかき集めて仕切りを作っては、ここは●○をする部屋と思い思いに部屋に役割を振って行っていた。ガキ将軍というダサい名前で有志を集めたチームも次第には幼稚園内では一大勢力と化していた。もちろん、毎度毎度見つかっては園長や住職には叱られる。ルールを破っている以上は仕方のない結果だが、イノセントな子供に対して大人はそこまで叱れないこともちゃっかりわかっていたのだ。

自分の姪や甥をみているとその成長のスピードに呆気にとられる。そして、携帯しかり様々な”モノ”に囲まれた生活を幼少期から過ごしている。僕の時代とは全く違う状況設定になっていることに気づかされるわけだ。ただ、モノで溢れることの弱みは自分で考え、行動しなくなる。ほとんどのことがヴァーチャルで経験ができる。手を使って自分が想像したものやことを実現させるために必死にマテリアルを探す必要も、人に怒られる必要もない。挑戦する必要がないわけだ。偶然の産物何てものよりも、安全で計画されたことに満足感を覚える、そんな時代である。最近、家族の事や子育ての事を考えるようになったからか、こういう時代だからこそ何も与えない事に美学すら感じる。人は何も無い状況(現代ではインターネットに繋がっていない状態)でこそ頭を使ったり、五感を研ぎすまそうと努力する。そして、目に見えない、感じ得ない自然の雄大さや長く続く文化の素晴らしさに心惹かれる経験をする。その行為はAIやARで生活スタイルがどんなに変わろうとも、失ってはいけないスタンスのように感じる。すくなくとも、子供にはバーチャルデトックスとして、五感を働かせる努力こそが創造性を高める行為として認識してもらいたい。

(text: 本村拓人 / 担当講義:ハイローカルをつくろうCulture Entrepreneur入門(Chap:耕す)新旅学のすす



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