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自由大学メールマガジン Vol.547|コラム「自然の美がすでに存在するのになぜ作るのか」

自由大学 学長 深井次郎 (自分の本をつくる方法教授)

メールマガジン

「もうこれで十分なんじゃないか」

里山で自然農を営むおじいさんに、問いかけられました。つまり人間がこれ以上「文明だ」「アートだ」などと言って、造形物を生み出さなくてもいいんじゃないかと諭すわけです。

雪が山々を覆いつくした姿は美しい。氷柱に陽がさす輝きも美しいし、川べりに漂着した流木や丸く削られた小石も、大小さまざまな落ち葉も美しい。その辺の道草をつんで、てきとうなコップに投げ入れただけで、こんなに美しいものかと感嘆します。
「どうせ、自然の美にはかなわないのに…」
仙人のようなおじいさんのため息に、そうですよね、まったく我ら人間は愚かですね。つい同調してしまいましたが、帰り道で果たして本当にそうだろうかと小骨が刺さった気持ちが続きました。
人間が作ったモノは、(美しいかどうかは別としても)愛おしい。やっぱりぼくはそう思っています。自然は大好きではありますが、人の手の存在を感じない「自然物」だけに囲まれた世界を想像してみたけれど、どうしても物足りない。さびしさを感じてしまうのです。
モノは、大きく2つに分けられます。
・具体的な「機能」を持つ道具
・抽象的な「感覚」をもたらす造形物
機能か、感覚か。まず機能として、生活道具は必要だから作ります。ハサミや靴や傘。これらは自分では上手に作れないから、「代わりに誰かに作ってもらえると助かるよ」と仙人も言ってました。
ただ問題は後者です。人間は、何の役に立つかわからない抽象画を描いたり、人形や置きものなど「感覚」の造形物を作ったりします。これがおじさんには解せない。自然の美がすでにあるのに無駄でしょう、超えられないでしょうとおっしゃる。
いやいや、たしかに抽象画には何の用途もないんだけど、心が元気になります。楽しい気分になりませんか? 元気になるんだったら、十分に役に立ってるんですね。
柳宗悦が「用の美」で伝えているように、「用と美は分ちにくい」ものです。ただの生活道具にもかかわらず、飾りたくなるほど美しいハサミも存在する。同時に何の用途もない抽象画だけど、元気が出て、心の役に立つ場合もある。「元気を出すための用途がある」とも言えるわけで、境界線はあいまいです。
用か美か、どちらであれ、ぼくは人間の気配を感じたい。たとえ自然物の美にかなわなくても、人工物も欲しいんです。人工、つまりアートですね。アートはもともと「技術」という意味で、「自然」の対義語になります。自然ではなく、人間が加工したモノすべてがアート。
人間はなぜ、人類史を通してずっとアートを作り続けているのだろう。直感的に「ケルン」(登山で出会うあの積み石)が、ヒントとして浮かびました。
20代のころ、山でひとり迷ってしまい、ケルンに救われた経験があります。見渡すかぎり木と岩ばかりで、誰もいない。携帯の電波も通じないし、もうすぐ日が暮れる。そんな心細さの真っ只中で、ケルンを見つけたんです。何でもいい、人間の手を感じる痕跡に出会って、ずいぶんと安心したんですね。大丈夫だ、帰れると思った。
帰れる根拠はまったくないんです。ケルンによって帰り道が示されたわけではないので、ピンチなのは変わらない。ただ、他の人間の気配だけで、元気が出たんです。この感覚を、言葉で説明するのは難しいですね。人の気配に力があることだけは、実感しました。
よくわからない抽象画を描いても売れるのは、有名画家だけ。これが定説ですが、見ず知らずのその辺の子どもが描いた落書きが売れてしまうことがあります。感じない人にとってはただのゴミでしかないものですが、ある人にとっては何か心打つ感覚をもたらしま
す。
用途があれば言葉で説明できるけど、感覚は言葉にはできません。「従来の1.5倍よく切れるハサミなんですよ」みたいなセールストークはできないから、感覚は感じてもらうしかない。言葉以前の美なんです。無意識の領域につづく窓というか。無理やり言葉にしようとしても、「なんかいい味だしてるでしょ」「エネルギーを感じるでしょ」くらいしか説明できませんし、感じない人には感じない。
買い手は、そのエネルギーが欲しいのです。こんな用途のないモノにも関わらず、作者は自分の感覚を形にしたくてエネルギーを注ぎこんだ。その現実が愛おしくて、買い手は手元に置いておきたくなったり、応援したくなるのかもしれません。
「道具が行き渡った未来には、人間は誰も買い物をしなくなる」
そう予想する経済評論家もいるでしょう。でも、買い物自体はそこまで減らないと思います。たしかに道具はいつか満たされます。ハサミは何本も要らないし、すでに最高の1本があれば買い替えません。
道具が満たされたあと、台頭してくるのは「感覚のモノ」でしょう。買い物はエネルギーの交歓なので、買い物自体はなくならないと思います。お金という媒体が変わっても、人の手で生み出したエネルギーを欲しくなるし、自分も作ったりしたくなる。
作者の喜びとしても、機能面より感覚面が評価されて売れたほうが、もっと嬉しいです。ハサミが売れても、お客さんはただハサミが欲しかっただけかもしれない。別にあなたが作ったハサミじゃなくても、今すぐ必要だから切れれば何でもよかった可能性もあります。
その点「感覚のモノ」は違います。何の役にも立たないし、いま買う必要なんてさらさらないけど、どうしても惹かれてしょうがない。作者のあなたは自分の独特な感覚をわかってくれる人が存在することに、大きな感動を覚えるでしょう。
そう考えると、役に立たないオブジェや抽象画や詩を創作して売れている作者の幸福度は、かなり高いと言えそうです。便利な道具がすべてそろい尽くした未来は、抽象表現のアーティストで溢れているのではないでしょうか。
「自然にかなわないから」と言って、もし美を生み出す行為をやめてしまったら、人間が地球にいる意味を肯定できなくなります。いないほうが美しいのですから。自らの生を肯定したいがために、人間はアートをやめられないのかもしれません。
TEXT:自由大学 学長 深井次郎 (自分の本をつくる方法教授)


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