講義レポート

人をつなぐ神社再生

「神社学体験プログラム」講義レポート

 

神社学体験プログラムの卒業生、土屋さんからレポートが届きました。この講義の舞台は栃木県にある賀茂別雷神社。この神社の手入れや修繕、周辺の里山との共生にむけた作業やお祭りのお手伝いを自らの体で体験するプログラムです。

体験プログラムは、賀茂別雷神社の歴史を紐解くことから始まりました。弥生時代山から京都盆地に降りてきた鴨一族の、水稲栽培が始まりと同じくして必然的に神社を祀る。神社というのは土着のもので、風土と人とに由来し影響される。調べた歴史のページの中に、「神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。」とありました。

着いてまず実際の毛利一族の歴史と、それを再生する毛利さんのお話をお聞きしながら、神社内を廻る。お年寄りが詣でるのは大変だからと、合祀したり社を移動したそう。子供御輿も、小学生が少なくなったときに工夫をして引いていたが、数人になったときにもう無理だろうと廃止された。昔は山全体の神社だったものが、そんな風に否応なくやらなくなった事廃止された事が歴史の中で沢山あり。

「やめようというのは簡単。新しく始めるのは大変」と再生の努力や苦労への実感がこもった毛利さんの言葉。毛利さんの発想やその手腕にわくわくと感動しながらも、一方で少し複雑な思いを持ちつつ、話を聞く。

私個人の故郷にも、産土の神社があり、地元に残った父が神事の際は夜通し神社に詰めていたりします。小中学校は数年前に廃校になり、神社や集落を守る若い人がどんどんいなくなる一方、私自身はというと東京に出てきていて、わざわざお金を払って…ということに、実は少し躊躇や葛藤がないわけでもありませんでした。お話の瞬間瞬間で、震災で呑まれた神社の再生のことなども、頭に浮かんできたりもしました。

ただそういう複雑な思いもある以上に、大変だろうことも楽しげにひとつひとつ作りあげて再生するこのプロジェクト自体に魅了されるところや学ぶところが沢山あり、ヨソモノである私達をもどんどん受け入れてくださる場が何より温かく楽しく。

正式参拝は禰宜さんである息子さんの晴喜さんが取り仕切られていて、丁寧によどみなく説明をし(前職を伺って納得…!)朗々と祝詞を上げられた後、どうせなら体験したいことはなんでも体験してほしい、気楽に楽しんでほしい、と装束や祝詞まで体験させていただきました。神事の際以外は普段は殆どチェンソーを扱ってることが多いと、帰りには作業着にタオルを巻いて別人のようになってました。

お二人は外の人を巻き込み巻き込まれしつつ、各々やわらかいコトバ(言葉に留まらず)を持ち、それが出来る人なんだろうなというのが話を聞いていて感じられました

「植樹すると、鹿が柔らかい若芽を全部食べちゃうんですよね。動物も食べることがわかったから、今度どんぐりの若木がようやく大きくなったので、山へ植え替える。どうせなら人の食べられるものも植えて、倉庫を人が集まれるように改修して、皆で集まって食べられたら。」

裏の山から榊をとってくる。表のある綺麗な枝を使い、黒い実が落ちたら汚れるので、実の成っている枝は実をとって使います。話を聞いて社内をまわる、どの話も素晴らしかった。聞いてて胸がいっぱいになってきました。その話がとてもラフな感じで聞けたのも、すごくよかった。「京都本社にもある白い石塚は、白い小石と白砂とを混ぜながら少しずつ毎日積み上げるから神が宿るのであって、御影石を削って型取っても出来ない。」なんだか象徴的な言葉だった。

神社というモノがあるからではなく、コトとして再生するから求心的に人がボチボチと集まり始める。「先代がご病気で荒れていた頃は、やっぱり手入れしにくる人は殆どいないんですよね。手入れし始めると不思議と人が来るようになる。」と現宮司の毛利さん。参拝することも含めて神社に足を運ぶことって、守られることだけじゃなくて、守ることなんだなって思いました。

 神社学体験プログラム

祝詞の奏上体験した日、夜は宮司さんの家で、明日の秋祭りのものも含めさまざまな種類の祝詞を見せていただく。漢字の読めない独特の大和言葉を、つぶやいて説明してくださるその音にまるみがあって、ことばの響きがなんとも耳障りがよい。「音が美しいですね…!」「言霊ですよね」という会話をしました。「神様ちゅーのは持ち上げとけば気分がよくなってお願いを聞いてくれる。祝詞は神様を気分良く持ち上げるだけ持ち上げとくためのものなんだ」とまた他のどなたかおっしゃってました。

祭りの準備に竹箒で参道を掃いていると、東京から神社を学びにきた3人がいる、というのは地元の人にも伝わっていて、声をかけてくださる。「地元の人」とひとくくりに見えても、東京から仕事で越してきてまだ1年という人や、今東京に住んでいて、定期的に手伝いにきている方など、様々で。今担ぎ手がなく、しまわれていた御輿を社務所に展示し、倉庫は改造して参拝者に食べ物を出せるようにする。そこで子供達が祭りの日に一番に列を作って食べて、遊ぶ。秋祭りの日に皆でその作業をする。御輿を移し終え、宮司さんは、「さて、こうなるとあそこらへんの人らがこれを見ているうちに動き出すだろう…」と、企み顔でほくそ笑む。今日の結果ひとつひとつが、ひとりひとりの中に眠る神を起こし、コトを起こし(興し)ていく作業なんですよね。それを日々積み重ねていらっしゃる。

秋祭りの神事の後椅子とテーブルを出し直し、作業が終わった人からそこに集まり、ぽつりぽつりとひけていくまで、ゆったりと食べた焼きそばやなおらいのお酒や人の笑顔が、天高い秋晴れの中上なく楽しく、心地がよかった。神社や修験の話を見聞きすると、そもそも詰まるところは自然への崇敬だとよく言われるのを聞く。神社という場所を、神様を慕ってくる人々、その人々を慕って集う人々が居て、そういうもの達を全て含んだ神事のもつ清々しさと親しみ、何事か起きる前後の独特の期待に満ちた空気や、祭りの後の日差しの軽い寂寥、掃いても掃いてもすぐ葉っぱを散らす風とか。そういうひとつひとつの現象や空気が、人のすることに対し意識があるように応えているようで、宗教とかパワースポットとか何かが見える見えないとか、そういう見方でいうとよくわからないけど結局、あれがいわゆる神様なんだろうか。そんなことをずっと感じていて、あれからまだ数日しか経ってないのにあの場のそういうものが、もう愛しくて恋しい。どんな理屈でもなく、神社と関わるってそういうことなのかも、と深く実感する体験でした。



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