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「我が、儘な、在るがままで」本村拓人

「Ready Study Go」連載コラム

僕の本業の一つに教育者としてのロール(役割)がある。自由大学での講義は僕自身が生徒でもあるわけで、教育者や教授とは決して名乗らない。強いて言えばキュレーター。では、どんな教育を施すのか?という問いが必然的にうまれるので答えていくと、人々は自分の潜在性に気づいていない生き物と仮定している。もっと言えば、あるがままの状態をキープすることから遠ざかっている人が多い。もっと言えば、素な状態で居ることが求められる。

それでは素な状態とはどんな状態なのか?米国MITのオットーシャーマン教授の名著の一つ、U理論を借りて説明すれば、「人々を素な状態へ誘うプロセス」といえよう。さらに簡単にいえば、人からの依頼で仕事をするのではなく、自らの妄想と創造力でやりたいことをやりながら、あるがままの状態を演出する。やりたいとやるべきことの間にはたくさんのストレスやジレンマがのしかかる。そのジレンマやプレッシャーにより、人は新生児が成長期にかけてもっとも重宝されていた好奇心や当たり前を疑う目がころされていってしまうものだ。

例えば、学校のルールや家庭内での規律も実は個性や創造性を失わせるファクターとなりうる。だからこそ、哲学を重んじるフランスやドイツの教育機関や家庭では子供達に過剰に物事を教えたりするのではなく、まず自分の意見を表現させることに重きを置く家庭が多い。つまり、常に頭の中には”なぜ”で埋め尽くされているのである。一方、日本ではなぜを連発する奴は嫌われる。生意気だとか、面倒な質問はするなと叱られるケースもある。近年はだいぶましになったが、そのwhyで問いを作り続ける作業は昨今流行りのデザイン思考などの領域でも重要視されている。ロンドンで発明されたスペキュラティブデザインとは自由大学創始者の黒崎さんでいうところの”何が問題かが問題である”という問題意識とも通ずる感覚といえよう。

さて、話は戻るのだが、日本ではそんな自分のあるがままを出すことをこれまでに教わってきていない。ヒエラルキーがある強い組織運営においては重宝される、といったように良い面ももちろんある。しかし空気を読むとも言われるこの行為は、日本の集団的行動パターンを理解する上で実は仇になる可能性も高い。なぜなら、組織自体が凄まじいスピードで今とは姿も形も変わる様相を呈しているからだ。

その一つの要因はインターネットであり、個人がメディアをもち、世界の至るところで生活する個人に情報を発信できる時代になったことが大きい。これはいうまでもない。このように個人と個人の接続性が高まると、必然的に組織から個人単位での仕事の受け渡しになっていく。すると大変なことが起こる。ルールや規律にしばられていた人々は通勤時刻から仕事のスコープ(範囲)までを裁量が個人に重くのしかかり、自らの考えや思想で仕事を作り、終わらせることが求められるわけだ。依頼を受けるサイドからは、少なからず依頼を整理して、自分なりに立てた戦略立案を遂行するまで自分が中心となり、責任を背負って納期までに仕事をしなければならない。僕もそうだが、フリーランスや事業を起こしてきた人からすれば当たり前の行為行動なのだが、これが言うは易く云々なのである。

こんな時代に求められるのは自らの意思で仕事を創る力である。ある種、自分を主人として、「やるべき」から「やれること」をベースに、やりたいことを基軸に自分の仕事を創り出す必要がでてくる。しかしながら、ふと自由をあたえられたようになると、困ってしまう人がいる。それもそのはず、これまで使っていた思考がまず通用しない。突然、大海原に放り出された航海士のごとく、萎縮したり、自信を無くしてしまう方が多い。

では、このような中で自由とはなにか?と問えば、”自分らしさに囚われ、あるがままに決断を下していく状況”だと僕は考えている。クライアントワークであれ、自分が好き好んで進めている小商いであれ、代金をもらう相手から自分に向かって問いかけられる問題や課題についての是非は自らがオーナーシップを持ち、答えを出さなければならない。スルーしたり他人に任せてしまえばそこでお役御免なのだ。そして仕事は来なくなるのだろう。そこに責任が生じるからこそじっくり考える。しかしながら、そんなに長くは答えを出すのを待ってくれない。みすみす仕事を失いかねない。だから常に答え続けなければならない。誰の基準かって?まさに自分の基準や主義主張のみが柱となる。そういった決断の行く先に運命と言われるゴールがある。その運命の支配者になるかならないかは各々が決めるべきだが、時代は先にのべたように、個人対個人で物事を進める時代である。かなしいかな、そうやって責任を負って仕事をして居る人はどんどん忙しくなる。

見方を変えれば、自分で好きだと思えることや自分本意で物事を進めることはそんなに悪くない。むしろ、輝きを放ちながら日常を迎えられることさえある。個人が個性を発揮する時、言わずもがな、その人の才能までもが手に取れるようにわかってくる。組織から独立して自立したフリーランサーや起業家たちからなる自由大学の教授やキュレーターは、皆個性溢れる面白い人たちで彼ら彼女たちの視点を武器に面白い講義を生み出していることは読者の皆さんもよくご存知だろう。

僕の仕事に話を戻すと、まさにそういった自由を勝取れる個人を生み出すことを若くは中学校から大学、企業や非営利団体、時には海を渡ってプログラムをデザインし、そのプログラムを通して個人の素を引き出すことである。自我や素という側面に長らく蓋をしてしまった個人が地下数十メートルの井戸の底に潜む「素」の状態に戻った時、いわゆる覚醒が始まる。覚醒が始まると、その個人が他人に依存することや、組織のルールだけにがんじがらめにすることをやめる。なぜならば、自分のやりたいことや本当の意思に気づき、そこに満足する。優秀な上司や世間を賑わして居る偉人たちに翻弄されてきた日々に、一点の光がともる。自分にも才能があるのだと。

(担当講義:新旅学のすすめCulture Entrepreneur



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