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「気軽に行こうよ。真面目は無能のいいわけ」本村拓人

「Ready Study Go」連載コラム

 まずはじめに、今の状況を一言でいうなれば、気楽でも気軽でもない。その逆で、少々気が重い。この強烈なメッセージが切り落としてしまいかねない様々な才能をとるか?
はたまた、このMessageの裏に潜む品質的な意味を見出すことで、挑発とも言える思想や思考を世に提示することで、個人の働き方や生き方に対する新たなパラダイムすら提示できるかもしれない。

「ワクワク感を選択するか?今自由大学運営チームの頭はこの議論でもちきりである。ということで、私がトップバッターとしてこのお題に触れながら、考察を展開してみたいと思う。冒頭からどうしようもない告白だが僕は無知であり、無謀である。が故に無能でない。わからないことは腹を立てて知ろうと努力はする。なぜなら無知だから。

やりたいことは全てやる。地球の反対側で会いたい人がいればいつだって明日のフライトを抑えて飛んでいくし、できもしないことをでっちあげて、人様に迷惑をかけながらもなんとか形にする。なぜなら、僕は無謀だから。また、時間には遅れるし、言いたいことを言う。聞きたいことを自分のタイミングで聞く。ルールがあれば、グレーな部分を探し出しては、そこを遊び場にして来た。時にはグレーからはみ出してブラックスペースに無意識のうちに入ってしまう。社会はそんな行為に対してNOをつきつける。

バックホームしてきた必死な三塁走者にむかって審判が球場全体に響き渡るように言い放つあのアウトの光景が脳裏に浮び上るほどに、そういう時の社会の目は気持ちよさそうだ。不真面目は即お引き取り願いますという風習はもちろんなくなったわけでもなく、21世紀がはじまって17年立つ今でもそういう人はいる。いたって真面目だ。

幸いなのは、親や親友や不真面目な先輩だけが僕のそいういった行為をどんどん応援した。とりえがないことが相当ラッキーだっととしかいいようがない。親もあきらめてか、ひらきなおってか、グレーであればやりたいことをやれ。と。そして、こういう性格が重なると人は不真面目街道をまっしぐらになるのは自分でも認識しているといっておく。もっといえば、常識やルールを端っから疑う気質こそがクリエイションの泉といえる。

だから僕はいたって不真面目である。不真面目を翻訳するとすれば、僕は無知と無謀の常習者だと考える。では、無知と無謀とは一体なんなのだろうか?無知とは言ってみれば物事について深い知識をもたないことである。決して好奇心がないという。意味でも無恥でもないのはいうまでもない。これは皆容易に想像がつくのだろう。

それでは無知とはどんな状態なのだろうか?例えば、会社で新たなプロジェクトにアサインされたとしよう。前任からの引き継ぎがあるのが普通として、指導を受けるまでは無知な状態といえよう。覚えの悪さは覚えなければならない物事に対する態度できまるとおもう。興味の持てないことの方が多いのが雇われている時に多い仕事なのが通常で、おもしろくないけど、お金をもらっている以上、我慢と責任でなんとか覚える。学校で教わった必殺暗記人に変貌を遂げられるあなたはお見事、数時間で覚えてしまうかもしれない。

無知や無謀は真面目とはかけ離れている。むしろ対局にある姿勢であり、思考だ。覚えがわるいことも、答えのない世界ではそもそも、覚えることよりも先に好奇心をもって問いを立てることからはじまる。その問いを立てる能力が期待される以上、物事を多く知っていることよりも、知らないことが多い方が純粋でピュアな視点で問いがデザインされる。それは僕たちの記憶の片隅に残っている好奇心の塊が部屋や町を徘徊しては大人たちにわかるまで問いただそうとする幼少期の状況ともいえる。幼少期は例外はあれ、無知で無謀なことを計画しやすいゴールデンタームなのだ。

少し俯瞰して考察してみよう。
暗記が求められた第二次産業社会。所謂、工場労働者や官僚的で全ての
プロセスにルールがある組織内では暗記に奏で、人の言うことを聞くことが重要視される。規律やルールを乱そうとする人材は不要、常に第一線から外されるケースがある。無知であることは存在価値がないとさえ言われることもあるのだろう。そういった社会構造の中では暗記型の人材で、常に答えが定まっている仕事をホイホイとこなすことに慣れ親しんでいた。
しかし、今の時代はインターネットの台頭を前提にした第三次産業が30年も前に到来しており、最近では個人個人がつながりあり、複雑で答えのない業務をプログラムやシステムでどんな場所にいても解決できる時代が押し寄せている。
ここでは複雑極まりない課題を人間ではなく、これまでの我々の叡智をアルゴリズムで機械的に処理し、優れた人間にのみ与えられた創造的コンセプトの発案もロボットや機械が行う時代が向こう岸まで来ている。

そういった時代に求められる能力がはたして、決められた枠組みの中でプロセスや仕事を暗記する暗記能力でよいのか?規律にそったことを淡々とこなせるルール型の人間でよいのだろうか?
16歳の時から様々な仕事をしてきたが、当時はまだまだ無知と無謀は虐げられていた。もちろん、僕の立場や就かせてらっていた仕事がオートマトン型の仕事だったという職種にも由来するため、あまり論拠にはならないのだろうが、少なからず、僕がやっていた仕事のほどんとどは大幅な合理化=人員削減を食らっているのも事実である。

そして、24歳で独立をしてからクライアントや、ユーザーから求められる課題は年を増すにつれて複雑で前例がないものになって来ている。しかも、それが先進国であれ、途上国であれ、地域性はもはや関係ない。また、僕の立場が急激に上がり素晴らしい職能をもったからとも言い難い。時代が変わっているのだ。社会が変わっているのだ。と僕は思う。だとすると、新たな社会構造に対して求められる人材ががらっとかわるのは歴史がといてくれている。

天変地異や大貧民でいう革命が起こるのだ。不良で不真面目なストリートスマートたちがコンセプトメイクを促し、それを基に新たなルールが広がる。官僚的でクローズドな体型体制も維持はされるが、時代の流れは確実に実験をしながら新たな問いをデザインし、その問いから答えを導き出す。
AIのような機械との攻防は激化するが、新たな境地を進み、コンパスをもって船出をすればAIが解をみつけたところで、偶発的な結果を体幹できるのは向こう30年は私たち人間の優位な立場であろう。

これまでの経験則や旧態依然としたOSをベースにした大企業は情報をひた隠しにして、結果的に1兆円を超える負債を抱えて、倒産または売却の道をあゆざるを得ない。
東芝を非難するわけではないが、あの一件は変貌を遂げている時代に
あったOSがもとめられていることを痛烈にかんじさせられた。

現代において、不真面目は希望の未来。そう呼ぶにはこの論考だけではたるはずもないのだが、こう俯瞰して社会構造を紐解いてみても、真面目は無能の言い訳とは言い得て妙である。

自由大学クリエイティブチーム 本村拓人
関連講義:(担当講義:Culture Entrepreneur新旅学のすすめ

 



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