講義レポート

〜音楽と言語のはざまにて〜

『DIYミュージック』キュレーターコラム

かつて、音楽家で文筆家の菊地成孔さんが私の母校の外国語大学で「音楽と言語はどのぐらい、どう似ているのか?」という講演を行っていたのを聴きに行ったことがある。音楽は、言語なのか、非言語なのか、はたまたその間なのか。抽象なのか具体なのか。

私自身はライター業もしており、普段、仕事柄どうしても「文字として書き現わされた日本語」を扱う機会が多い。しかしながら、ここ最近のラップブームもあいまって、ひとたび書き文字だけでなく音として言葉が立ち上がる時、そこにあるのは音楽にとてもよく似たものなのではないか、と感じ取れる機会が急速に増えた。それは、DIYミュージックを受講した人たちがつくるそれぞれの作品やトライアル過程を横で一緒に体験させてもらっていても、感じることが多々ある。“感じたこと”“考えたこと”を伝えるコミュニケーション手段を既存の言語だけに頼る必要など、実は、全く無いのかも、と思える場面にしばしば遭遇するし、それは、「他の人にはこの音がこういう風に聞こえているのだな」という耳のフォーカスポイントの差異に触れることで生まれる感動によるところも大きい。

たとえば“スケッチをする”という行為も、正直なところ「絵画」という視覚表現に頼りすぎているのかもしれない。これも、実は音を使ってもできるし、もしかしたら嗅覚を使ってもできるのだろうし、味覚でもできる(味覚はたぶんわかりやすい。メニュー名にもよくある「○○風」みたいなものがきっとその顕著な例だ)。

何かを他人に伝えるために記号化すること、そうして切り取られた情報を得る手段……、そういったことをここ最近の人間界は「視覚」に過度に頼りすぎてきたような気がしていて、もっと、いろいろなものの境界線上にある曖昧な方法や感覚器に、この先の未来のコミュニケーション手段の萌芽が見出せるような気がひしひしとしている。

たとえば、映像と写真の境目や、リズムにあわせて身体を揺らしてみることと所謂ダンスの境目。それらはどこにあるのだろう?またそういったものと同様に、音と言葉の境目も、今後さらに曖昧になっていくようにも思う。 現代生活の中でしっかり使いこなせている身体の感覚器にはとても偏りがあるし、今のところあまり使えていない感覚器を澄ますことで、もう少し身体をフルで稼動させるようなコミュニケーションが可能になるのではないかなという気もしている。

言葉としての音楽、リズムとしての言葉、環境としてそこにある音、耳という器官で無意識に知覚し続けている情報としての音について、この先もDIYミュージックの講義を通して更に探っていけたらと思っている。

 

期を超えたDIYミュージック同窓会では、自由な発表の場を設けていて、この時は真ん中の彼女が自分の映像作品を発表しているところに、興味のあるメンバーが集まって見ていました。

 

words&picture:鈴木絵美里



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