講義レポート

いまだからマナーと教養を磨こう。

『新旅学のすすめ』キュレーターコラム

 丁度1年前の5月に7年ぶりにロンドンに降り立ってその変化に気づいたのは僕だけだろうか。

 空港からロンドン中心地に向かう手順を丁寧に教えてくれる。地図をみればわかることだし、wifiに繋げばネットで確認することもできる。ただ、東京からの移動となると時差ボケや長時間の移動で頭はまわってなく、体もなかなかにしんどい状態である。そんなところにパキスタンからの留学生なのか移民なのかとにかくイギリス人ではないと思しきスタッフが丁寧に行き方を指南してくれる。その光景が空港だけではなく、主要の地下鉄や公共施設にスタッフィングされているのである。イギリス市政の公共政策の一つとして設けられているにしても、機械的に対応されると不要なサービスとなるもので、逆に気持ちがこもっている気遣いは旅行者や出張者にとってその地域への親しみや高感度にもつながる。結果として再訪(リピート率)も高まる。ましてやW杯やオリンピックといった世界中が関心を寄せるイベントとではホスト国の真価はこういった一連のソフトなサービスを通して問われる。

 2年後に迫った東京オリンピック・パラリンピックであるが、成田空港において、いつテロリストに襲われてもおかしくない無防備なエントランス。巧妙といえばよいのだろうか。ただでさえわかりづらい地下鉄を乗りこなしてさえ、目的地までのアクセスとして最も便利な出口を見つけるのは至難の技である。障害者においてはバリアフリーとはいえない構造で、これが仕方ないのであれば通行人や乗客の自助努力を期待するのみ。だけど、朝と夕方のラッシュは壊滅的な状況となるだろう。頼むに頼めない。止まるに止まれない。話すに話しかけづらい。前途多難とはこういうことなのだろうか。数年前に東京五輪を勝ち取った時のプレゼンテーションは記憶にあるだろうか。お・も・て・な・し。今となっては皮肉にしか聞こえないこの状況をただただ批判しても何もはじまらないわけで、もう少しこの気づきを自分たちの手のひらに乗っかりやすいようにデザインをしてみようと思う。一応東京人なので。

 ロンドン市民が大きく変わるきっかけは間違いなく2012年に世界から賛辞を与えられるほどに盛り上がったオリンピック・パラリンピックであろう。2007年に誘致に成功して以来、ロンドン市は大会の開催を口実にeast londonエリアの再開発や一般市民のサービス向上や拡充を草の根レベルで展開するなど様々な改革を実施する。2012年以降も経済は活況を帯びて、国内外からの投資は加熱するほどに流入する。また、障害者が主役となるパラスポーツも2017年には世界大会が再度ロンドンで行われ、超満員の中で閉会した。人々の内面性にも変化をもたらし、マナーの水準は高まった。元々オリンピックなどの開催により建設された公共施設やインフラなどは、その後の地域の発展を恒常的に下支えする遺産(レガシー)と言われるが、ロンドンオリンピックではハード面のみならず、人々の内面への変化といった意味ではソフト面のレガシーを残したと言える。そして、そのレガシーを言い換えればマナーの向上だ。世界基準のマナーを考えることも必要だが、東京ならではの習慣や行為の特質は決して無くしてならない。それは文化ともなりうるからだ。また、マナーはルールではない。ルールには違反をすると罰則が与えられ、マナーがなっていない場合は冷めた視線と羞恥心を心に残すことになる。ルールは明確な基準があるが、マナーとは極めて曖昧なものも含まれる。ルールの最上は法律であり、マナーの最上を僕は「文化」と捉えている。恵比寿にあるミュージックバーでは女性を口説けないし、夜の銀座では路上でタクシーを拾ってはダメだ。これはマナー違反である。会社などの単位であれば売上目標に到達しない営業マンは減給や降格の可能性に脅かされ、朝9時に出勤し、5時まで働かなければ雇用契約に背いたことになりクビを言い渡されるケースもありうる。

 意外と考えてみるとこのマナーとルールの間には大きな隔たりがある。この間に存在する不明確・不明瞭を解消してみることが東京が変わるきっかけになるのかもしれないと本気で思っていたりする。

 マナーに関して少し触れれば、東京の至るところに隠れたマナーは存在する。気心だけでは通過できないハードルのようなものだろう。だから教養が必要になってくる。誰かが教えてくれれば、それに越したことはないが、お金もない若者が銀座の高級クラブでの振る舞いやマナーを身に付けることはできないし、浅草など下町ならではのコミュニケーション作法や裏千家の茶室での身のこなし方は一生学べない。教養と聞くと机に座って教科書を開いて一字一句を詰め込むイメージが想像されるのだろうが、ここでいっている教養とはむしろ実践の中で楽しみながら知ることに他ならない。好奇心無しには追求はできないもので、教養も趣味の延長で極められる日常の知恵、と言い換えればどうだろか?すこしは学ぼうとする姿勢をとりもどせるのではなかろうか。

そして、自由大学ではこのマナーと教養をあえて今だからこそ学ぼうと思う。



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