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アメリカ大陸を放浪しながら大好きなグレイトフル・デッドを体感した中村真さん。その経験を経て帰国後は、雑誌「エココロ」の発行人になります。出版社の代表として、中村さんがまずやり始めたこととは?それは少し意外なことでした。聞き手は、自由大学学長の和泉里佳さんです。

聞き手:和泉里佳(自由大学学長)
司会:高橋宏文(フリユニラジオ編集長)
写真:水澤充

part1 人生の価値観が変わった若い頃の旅
part2 グレイトフル・デッドからエココロへ
part3 神社が好きという気持ちをシェアする「神社学」
part4 「神社学」をとおしてつながっていく世界


グレイトフル・デッドからエココロへ

和泉 中村さんはグレイトフル・デッドの大ファンでお馴染みですが、どういうところにここまでハマってしまったのですか?

中村 すごく安直に言ってしまえば、自由で何の決まりもないところ。それまで僕が触れていたショウビジネスや音楽の概念がすべて吹っ飛ぶくらいでした。練習に練習を重ねて演奏を間違えないステージではなく、その日の天候やオーディエンスや体調に左右されながらその日のその場だけの音楽を生む、ということが音楽なんだ!と。たとえば、マイケル・ジャクソンやマドンナのライブを高校生のとき観に行って、あのときに受けた感動はもちろんあるけれど、あの感動すらも、練習に練習を重ねた発表会とあまり変わらないのではないかと感じてしまった。

和泉 そうやって練習に練習を重ねて、いつどこでやっても同じくらい完成度の高いライブになるというのは、世界の街なかに同じ路面店があるというのと近いものがあるかも。

中村 そうですね、同じかもしれない。そういう意味で、僕はグレイトフル・デッドと出会って、音楽というものの概念自体も変わりました。音楽をとおしてその周辺に集まる人たちがみんなライブを録音してその音源を交換しあうことでどんどんグレイトフル・デッドの音楽が世界中に広がっていく。グレイトフル・デッドのロゴマークもみんなが勝手にいじって、自分だけのグレイトフル・デッドのTシャツやステッカーをつくる。それらをコンサート会場の目の前でガンガン売ることができて、誰も取り締まらない。しかもグレイトフル・デッドのメンバー本人たちがそれを喜んで推奨していたというところに、これまた「うわ〜、俺たちって小さい」というか、「こうじゃなきゃいけない」というところにあまりに縛られていたんだなというのは感じるきっかけになった。

僕はその当時しばらく日本の外にいましたから、日本もだんだん恋しくなってくる。あと、世界中のいろんな若者たちといろいろ話をしたときに、海外に人たちってわりと自分の「お国自慢」をどんどんしてくる。日本人はあまりお国自慢をしないんだけど、そうやってしないことが日本人の奥ゆかしさだから良いという考えかたももちろんある。それはそれでぜんぜん構わないんだけど、僕はやっぱり自慢できなかった自分が悔しかった。自分が日本人であるのを誇りに思えていなかったことに気づかされたし、単純に誇りに思えるものを知らなかった。そんなわけで、旅が長くなればなるほど、デッドを聴けば聴くほど、海外のいろんな人たちに会えば会うほど、日本にどんどん興味が出てきて、帰国をすることになりました。帰国をしてから、気持ちはだんだんアジアや日本に向かい始めて、そこから日本をぐるぐるまわる旅が始まっていくんですね。それがだいたい25歳くらいのときの話です。

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和泉 そこから今では「エココロ」の発行人だったり出版社の社長までされたということですけど、こんな仕事をするとは思っていましたか?

中村 まったく思っていなかった(笑)。まさか出版業をやるとも思っていないし、しかも出版社の編集や営業でなく、代表をやることになるとはまったく予想もしていなかったですが、そこに行き着くまでに必要だった要素として絶対に外せないのが、旅だった。旅で一気に価値観が変わったことによってそこから選びはじめた僕の人生でなければ、確実に「エココロ」の発行人にはなっていないだろうなとは思っています。

和泉 中村さんは「ニューメディアラボ」の教授でもありますけど、ライブやCD、自分で録音したカセットテープやステッカー、イベントや本や雑誌など、いろんなメディアをずっと経験されてきたんですね。

中村 そうですね。一時はメインストリームの仕事をしていたこともありますが、結局は、表現をするとか表現したい人の思いをかたちにするというような、「かたち化」していくことにもともとすごく興味があった。日本に帰ってきたばかりの頃、「こんな仕事ができたらいいね」とか「こんなことをやったら売れるんじゃないか」とか仲間たちといろんな夢を話していましたが、当時は何ひとつ成し得ることができなくて、自分でそれぞれ進む道を行って一人前になったらもしかすると一緒に仕事ができるんじゃないかと。やっぱり何も持たない人たちだけで集まってもしょうがなくて、ひとりひとりがこれはほかに負けないというものを持っている、もしくは経験を積んでくることによってはじめて周りと力を合わせて大きなことができるということになっていくのかなと。そう考えたときにメインかアンダーグラウンドかというのはあまり関係ないんだけど、両方を経験してみた結果、やっぱりメインのお仕事になってくると、まだまだ自分の思いだけでやっていくというのはできない。どちらかと言えばクライアント・ワークで、自分の気持ちを押し殺してもお客様の言っていることをかたちにする、という…こういうことってガキの頃はずっとやりたくなかったんだけど…これもちゃんとやれるようにならなければ、その先に自分のやりたいことはできないんじゃないだろうかと。こういうモノの考え方ができるようになったのも旅がきっかけですね。

ありがたいことに、いろんなメディアにいろんな角度から携わらせてもらったのですが、やりたいことや興味のあることには貪欲になってきた自信がある。これは決して楽な道ではなくて、自分がやりたいことをするために歩を進めたときには、その手前でやりたくないことを100個でも200個でもやっておかないと、やりたいことにはなかなか近づけないので、そういうふうに進んでいったときに必ずいい出会いがあり、その出会いから逃げずにまた飛び込んでいく、ということの繰り返しでずっと来た。そんなときに「エスプレ」という会社を立ち上げたばかりの代表の方と出会って、「手伝ってくれないか」と言われたのがきっかけで、「エスプレ」が立ち上がった1年後くらいに僕が入社した。その半年後くらいに「代表をやってくれ」と引き継がれたので、「はあ〜っ!?」みたいな感じでやり始めた、ということです。

和泉 代表として必要なことって何だったんでしょうか?

中村 僕は当時すごく悩んで、それまで経営者のようなモノごとの考えかたを一度もしたことがなかったのですが、このタイミングで「代表をやってみない?」って言ってもらえるような星だったとするならば、そこには何か意味があるんだろうと。僕が今まで生きてきた人生を振り返りながらも、それでもこのチャンスに出会えたということは、今までやってきたことが決して間違っていないだろうし、これも大事にしなくてはいけないと思ったときに、変に素人頭で経営の本を読むとか経営セミナーに通うとかは絶対にやめようと思った。で、それまでの人生で自分ができるのにサボってやらなかった、ということはいくつかあるわけですが、そのうちの代表的なもののひとつとして、僕は朝が弱かったので、「じゃあ、朝に強くなろう」と(笑)。つまり何をやったのかというと、毎日いちばん最初に僕が出社して、会社の鍵を開け、窓を開けて空気を入れ替える。これを一年間、自分の仕事としてやり始めた。それ以外の勉強とかはやらず、それを一年間やったのですが、じゃあ二年目は何をやろうかということで、会社が入っている雑居ビルの共用トイレの掃除を地味に始めました。出版業界ってみんな朝が遅かったりするんだけど、そんなことをやっていると、ひとり、ふたり、三人と、朝にちゃんと来る人が増えてきたり、トイレを自主的に洗う人が増えてきた。トイレを洗うとか朝早く来るということがそのまま会社の経営に響くかというと、すぐには響かないのかもしれないけど、人間力みたいなところでは、そうやって自分が思ってやり始めたことが少しずつ伝わっていくというのはすごくうれしかったし、ウチの会社の社員の人間力を上げていくというところではうまく働いたのかなというふうには思います。とはいえ、出版業界が本当に厳しくなってきた時代の最中でしたので、だからといってウチの会社の景気が良くなったわけではないですが。


中村真
株式会社エスプレ元代表 1972年東京生まれ。雑誌『ecocolo』や書籍『JINJABOOK』などを発行する出版社株式会社エスプレの代表を務め、現在はプロデューサーとして活躍中。学生時代より世界を旅し、外から見ることで日本の魅力に改めて気づき、温泉と神社を巡る日本一周を3度実行。出版のみに留まらずイベントや社会貢献プログラムなど様々なメディア活動を展開中。神社とグレイトフル・デッドをこよなく愛する40歳日本男児。
株式会社エスプレ ecocolo 

part3 神社が好きという気持ちをシェアする「神社学」

 



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