雑誌「エココロ」のプロデューサーであり、自由大学で「神社学」「ニューメディアラボ」の教授を務める中村真さんは若い頃にアメリカ大陸を2年弱にわたって放浪していた経験の持ち主。この旅が自分の生きかたや考えかたを大きく変えることになったと中村さんは言いますが、それはどのような体験だったのでしょうか。まずは中村さんの現在につながる旅を振り返ります。聞き手は、自由大学学長の和泉里佳さんです。
聞き手:和泉里佳(自由大学学長)
司会:高橋宏文(フリユニラジオ編集長)
写真:水澤充
part1 人生の価値観が変わった若い頃の旅
part2 グレイトフル・デッドからエココロへ
part3 神社が好きという気持ちをシェアする「神社学」
part4 「神社学」をとおしてつながっていく世界
人生の価値観が変わった若い頃の旅
和泉 中村さんは、仕事も含めてプライベートでも神社をまわったりとか、自由な大人という印象を受けますが、もともとはどんな若者だったんですか?
中村 今、「自由な大人」と言ってくれましたが、いつの間にか40歳になってしまった。主観的に言えば、ものの考えかたや行動するきっかけは高校生のときとまったく変わっていないんです。自覚できる部分においてはそんなに変わっていないんだけど、前よりは少しだけ我慢できるようになった。もともとはすごく短気な男だったんですが、そういうのはだいぶなくなってきたかな。
和泉 もともと、自分の情熱やパッションに忠実な行動をしているタイプだったんですね。
中村 わがままですごく自己中心的だったんですね。自己中心的な性格は今でもあまり変わっていないんですが、その自己中心的な行動によって巻き込んでしまう人にも前よりは楽しんでもらえるようになった、というのはあるかもしれない。そういうところではもしかしたら成長しているのかもしれませんが、でもどんな時代だったのかと言われたら、今とあまり変わらないのかもしれませんね。
和泉 二十歳くらいの頃、世界を放浪していたという話ですが、旅に出ようと思ったきっかけは?
中村 僕らの世代って当時はバックパッカーで世界に出る人がすごく多かったし、貧乏旅行をみんなやっていた。そのあたりの連中に話を聞くと、インド、ネパール、アメリカという話はよく出てきたけど、さすがにその当時、ブラジルに行ったという話はほとんど聞いたことがなかったんですね。あと、当時の自分はすごく視野が狭かったのですが、「東京で過ごしている自分=日本」みたいなモノの見方をしてしまっていたので、そういうモノの見方で「日本って面白くねえな」と思っていた。自分の意識があるのかないのかわからないけど、みんなが流されるように生きているように見えたんですね。とにかくつまらなくて早く外に出たいという意識も強かったので、そういういくつかの理由が重なって旅に出ようと思ったんです。
和泉 そのときの旅って何年くらい行ったんですか?
中村 一度日本に戻ってくることもあったけど、トータルで言えば2年弱くらい。南米から入り中南米に行ってその後アメリカ、というのが大きな行程です。
和泉 基本的にはアメリカ大陸だったんですね。その旅のなかで、後の人生に大きな影響をあたえることなどあったんじゃないかと思うんですが…?
中村 まずブラジルに行ったんですが、ブラジルって国土が日本の23倍以上もあって日本とあまり変わらないくらいの人口なので、ひとりひとりの専有スペースがめちゃくちゃ広い。都市と未開発のジャングルが同居している国のなかで、まず都市部はすごく怖かったんですね。強盗にしろ盗みにしろ、欲が渦巻いているのが都市部だったので、そういうのに遭うのは都市部だった。地方のほうはと言うと、英語ももちろん通じないし、大草原を歩かなくてはいけないときには一本の道しかないのね。すると道の向こう側から、上半身裸で短剣を持った人が歩いてきて、すごく怖いわけ。でもそういう人のほうが実際には怖くなくて、ただの田舎のお兄ちゃんだった。僕はポルトガル語ができないので、話をしっかりできたわけではないけど、ジェスチャーを交えてどうにか仲良くなってみると、出会ったばかりなのに「まあ、みかん食えよ」とか言ってくれる。でもそれって、日本の地方でいきなり出会ったおばあちゃんが「ウチの漬物、食っていきなよ」っていうのと同じ感覚だった。
そして都市に出てみると、リオデジャネイロやサンパウロやブラジリアはビルが建ち車がガンガン走ってみんながいいものを着ている、という意味ではもはや東京とさほど変わらない。そのときにじゃあ「世界基準って何なの?」と考えてみると、僕は当時、日本を出る前は、都会でのライフスタイルこそがどこへ行っても変わらない世界基準だと少し誤解をしていたんだけど、でも他の国と同じものではなく、その国独自のものがその国の基準となり、それがほかの国と比較できることのほうがよっぽど大事なのかなと。都市部でまったく同じブランドの路面店があるような街並みが世界基準ではなく、ブラジルでは裸のお兄ちゃんがみかんをくれるように、日本ではおばあちゃんが「漬物を食っていけ」と言ってくれるようなことのほうがよっぽど地球を感じる世界基準なんだろうなと。
そういうことの積み重ねのなかで、今まで東京で自分が見渡せる視野だけを見て、それが日本だと決めつけていたことに気がついた。もともと日本を嫌いになって旅に出たんだけど、そうじゃないんだなと。日本の魅力は僕の知っていた街なかにあるのではなく、自分の知らない地方に昔からの日本の暮らしや日本人の心が息づいていて、そっちを知らずして「日本が嫌いだ」とか「日本は面白くねえ」とか言っていたのか、ということをブラジルで思い知った。だから、いかに自分が小さい男だったのかということをすごく感じる旅になりましたね。
それから、これは「神社学」の講義でもたびたび話していることだけど、その旅のお供にはいつもグレイトフル・デッドの音楽がありました。僕がアメリカに入ったときは、1994年にバンドが終わって、1995年にジェリー・ガルシアが亡くなった頃だったので、たっぷりデッドを観ることはできなかった。でも、デッドをしっかり追いかける旅はできたので、もともと大好きだったグレイトフル・デッドの真髄を感じることができた。そこに行き着くまでに先ほど言ったような価値観の変動があったけど、その変動があってはじめて、ジェリー・ガルシアの言っていた「生きる=楽しむ」という言葉に出会って、そこからまたガラッとモノの考えかたが変わった。「これをやらなきゃいけない」とか「男としてこうならなければいけない」というようなことで自分が苦しむのではなく、「今、生きている」ということに自分でもっと価値を見出して、今、生きていることにもっと価値をあたえてもいいんじゃないかな、ということをすごく強く思った。そこからは開き直りの人生というか、「まあ生きていればいいや」みたいな。
でも、「生きていればいい」とか「今を楽しむ」というのは、この自由大学の「自由」にもつながってくるのかもしれないけど、すごく責任を伴う言葉や考えかたでもあると思っているんです。無責任に「何でもいいや」とか「やりたくないことはやらない」とか「面倒くさいことから逃げる」というようなことだと、もしかするとその瞬間瞬間の「楽」はとり得るのかもしれないけど、本当の意味での自分の心を満たしてくれるような喜びや楽しみには絶対に行き着かない。もしかすると僕は旅に出る前、いろんなことから逃げていたのではないか。だから、目の前のことから逃げて楽を手にしているうちは喜びと楽しみは手に入らない、ということを本質的に感じることができた旅だったんだろうとは思います。
中村真
株式会社エスプレ元代表 1972年東京生まれ。雑誌『ecocolo』や書籍『JINJABOOK』などを発行する出版社株式会社エスプレの代表を務め、現在はプロデューサーとして活躍中。学生時代より世界を旅し、外から見ることで日本の魅力に改めて気づき、温泉と神社を巡る日本一周を3度実行。出版のみに留まらずイベントや社会貢献プログラムなど様々なメディア活動を展開中。神社とグレイトフル・デッドをこよなく愛する40歳日本男児。
株式会社エスプレ ecocolo