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世界の全てが、哲学的に見える時がある。

「出会うなら、今」とか「美味しさは、いのち」とかという浮かれた広告も、コメンテーターの「これは深刻な問題です」も、「国民のためです」という政治家の演説も、とにかく目の前を通り過ぎる出来事や言葉が、全て輝いているのだ。そんな時、世界はとても思慮深いなあと感じる。「みんなそれぞれ深く考えて哲学して生きているんだなあ」と急に感動する。
でも次の日起きると世界は、浅い言葉が上滑りするどうしようもない場所になっている。

どちらが本物の世界なのか、哲学がなんなのか、最近わからなくなってきた。人がみんな哲学者に見えた次の日にわたしは、人が何も考えていなくても結構それっぽいことを語れることに気がつく。死ぬこと以外はかすり傷だし、生きることは愛。

「哲学の授業でわたしはいつも「深く考えることが哲学だよ」と言うけど、「深く考えること」が何なのかもよくわからない。「今日の夕飯は鯖にしようか鮭にしようか」とか「寝坊ばっかしちゃうから目覚まし2個使おう」とかが、“哲学”じゃないことはなんとなく理解できるけれど。

ただわたしたちには、世界や誰かが語っている言葉が、浅く見えようが深く見えようが「なんで?」「ちょっと待ってください!」と言いたくなる瞬間がある。「説明の不在」にむず痒くなる時がある。わたしたちは「なんで、死ぬこと以外はかすり傷なのか?」を知りたいし、「人が今誰かと出会わないといけない」理由を聞きたいのだ。
この「理由を問うこと」が哲学的な態度なのか、これもまたわからなくなっているのだけれど、他者に問いかけ対話をしようとする姿勢は、言葉がどう消費されるか誰も気に留めない社会に浮遊しているよりはずっと居心地がいい。

最近はそんなことを考えながら、哲学をしている。
哲学とは何か、を考えながら。

 

担当講義: これからの社会をつくるための哲学

Questions without Answers



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