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「ルールとの対話」佐藤大智

価値の濁流

このルールをがあるのはなぜ?なかったらどうなる?なぜなかったらダメなの?と考えてみる。その答えににまたなぜ?とと問い、どんどん深掘っていく。すると案外いくつもの地層をサクサク通過してしまう。本質的には無くてもいいものの集積だったりする。どっしりとした地面は揺るがないかのようだけど、そうでもない。(やってみてほしい) 僕の場合その行き着くところは、ほとんどのパターンで「生命が存続できるかどうか」というところに収束する。今度は下ではなく上を見ると、ルールは高度な社会、文化を形成することに役に立つ。もちろんルールなしでそれを形成できることが理想だが、ルールがスタンダードに移行する過程で役割を果たす。

中学校、高校に通っていたころは、ルールが大嫌いだった。思春期だったせいも大いにあるだろうが、根本的な原因は実態(中高生)と運営(ルール)がズレているからだろう。すでにルールが決まっていて一方的に従わさせられる。選択の余地もなく、僕らの過ごしやすいように当事者の僕らがルールをつくることも許されなかった。多くの人が同じような経験をしていないだろうか。「しょうがない」と言ってしまえばそこまでだが、健全な構造、状態でなかったのは確かだ。

意識を現在に戻すと、今の日常生活も案外近しい状況におかれているかもしれない。社会が大きく変動するなかで、実態とルールがズレてきている。従順に今のルールに従っていてもいい状態にはならなそうだ。そこで重要になってくるのは、対話と自治の精神だろう。それは、市長になるとか、村長になるとか、レジスタンスになるとか飛躍しなくてもよい。3、4人の少人数からはじめてみる。それは職場のメンバーや友人とでもはじめられる。

どんなルールをつくるか。もはやそのルールは柵としてのルールではなく、美意識をもって未来の希望を設定することである。



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