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【vol.14 自由は主体性から】佐藤大智

価値の濁流

自由大学READY STUDY GO

自由大学のという名の組織で働いていることもあって、自由ということについて考える機会が多い。自由について考えるミーティングの時間を取る会社はあまりないだろう。というかほとんどないかもしれない。普通の会社で自由について話し合ったら、仕事をしなくなる人が増えてしまうかもしれない。

ご存知の通り北欧好きの岩井さんは、年に3・4回、各2週間くらい北欧に行く。その間も自由大学はいつも通りさまざまな講義が行われている。もちろんミーティングもいつも通りにあり、岩井さんはappear.inを使って北欧からミーティングにwebで参加する。時々、画面の向こうから聞きなれないサイレンの音が聞こえたりする。岩井さんが北欧のどこにいるのか僕はわかっていない。でも、それでいい。ミーティングの目的である共有と意見の出し合いと決定が行われれば。

初代学長の里佳さんが娘のさらちゃんを連れミーティングに参加するとき、さらちゃんがお腹がすくとミーティング中にさらちゃんのランチがはじまる。その光景になごみながらミーティングは進む。

普通の会社なら許されないかもしれないが、別にこれらの行為自体が悪ではない。それが悪いことかのようにルールをつくり、勝手に当事者がそのルールを運用しているだけ。考えが違う他者に押し付けようとしたり、同化しよう、させようとするから齟齬が起きる。そもそも他者は考えが違うという前提に立って、共有できることを共有すればいい。

ルールを守る必然性はない。元来、人間は自由なのだから。ただそこにあるのは主体性。そうしようという意思が集うから成り立つ。日常生活で手を使っていけないルールはどこにもないが、サッカーをしたい人はキーパー以外意図的に手を使わずにサッカーを楽しむ。全員が主体的にサッカーをしようとしているから成り立つ。

スポーツは変化しない共通のルールがあるから、おもいろい。でも、スポーツでなければ、さらにおもしろくするために自分たちでルールをつくることもできる。仕事のルールも自分たちでつくることができる。ルールと度々書いてきたが、「やりかた」と言い換えた方が適切かもしれない。制限するもの、縛るものではなく、ただそうしたいからそうしているという集合体にすぎない。

知らず知らずのうちに自分もルールに縛られてしまうから、今回文字にしてよかったと思う。日々こんなことを考えたりしながら、自由大学の仕事をしている。そんな自由の意識をちりばめながら講義をつくり、その講義を通じてこんなこともしていいんだ、こんな視点もあるか、私は本当はこんなことをしたいのかという気づきのきっかけを提供している。自由への招待。



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