ブログ

【vol.12 生きた心地】佐藤大智

価値の濁流

自由大学READY STUDY GO

ちょっと変わった形のお皿に美味しそうに料理を盛り付け、レースのカーテンから優しい朝日が差し込む。そんな雑誌のようなフォトジェニックな暮らしは、次のページをめくるまでの30秒間は桃源郷へいざなうが、どこか違和感がある。

いわゆる”丁寧な暮らし”は見た目の美しさがその根幹ではないだろう。衣食住のハードを質のよいものにすることではなく、心地よさ、安心、美、五感を自分でハンドリングすることだと思う。自分で料理をする。こまめに部屋の掃除をする。ザラザラ、ツルツル、ヌルヌル、サラサラ。物の手触りを感じられる生活をしているか。雨が降るまえの空気の湿り気や、雲が太陽を横切るときの日差しの変化、風の吹き方、鳥の鳴き声、カビの臭い、季節の花が咲いたことに気づく生活をしているか。感覚器官をOFFにしたような単調な日々の繰り返しではなく、生きた心地がする生活をハンドリングしているか。

ある友達は、掃除機を買ったことがないという。掃除機を使うときの騒音や、掃除機が部屋に置いてある状態の空間も好きではないからだそうだ。掃除機がなくてもほうきとちりとりで掃除された部屋はいつも綺麗だ。また別な友達と器屋さんに行ったとき、彼はある茶碗に感動し、とても好みだと満面の笑みで言った。しかし、なにも買わずに店を出た。値段も4000円と決して手の届かない高価なものではない。理由を聞くと、「あの器を自分の暮らしに迎え入れる準備ができていない」と彼は言った。そのときは正直言っている意味がよくわからなかった。金銭的に買える買えないではなく、その器と調和がとれる他のお皿や箸、湯のみが準備できているか。そして、盛り付けるのにふさわしい料理を自分が作れるか、茶碗に見合う美味しい米を買い続けられる経済力があるか。食材の買い出しをして、料理を作って、ゆっくり味わって食べる時間を確保できる仕事をする能力が今の自分にあるか。その茶碗を1つ買ったら、生活がよくなるのではなく全体の状況がとても大切だと彼は言った。

僕が、屠殺などをするのも”丁寧な暮らし”の延長線上だと思っている。コンビニのごはんではなく、自分で料理をする。スーパーのパックに入った肉ではなく、生きた鶏を自分でさばく。しかし、その延長線のさらに先は自給自足があるが、それが”丁寧な暮らし”かといえば違う気がする。おそらく完全な自給自足は快適性が下がるからだろう。社会が専業化することで高度なものを手に入れられるようになってきたので、すべてを手放し、すべてを自分で構築することは逆に快適性は下がってしまう。でも、自分の暮らしを外部化し、手放しすぎてしまったがゆえにその反動が今きているのだろう。自分はどこまで手放し、自分の手で何をしたいか。生きた心地がするか。



関連するブログ