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【vol.5 Who am I? Who are you?】佐藤大智

価値の濁流

自由大学READY STUDY GO

僕は警戒心が強い。子供の頃は小学校の全校生徒が40人くらいの地域で育った。同級生は8人。全校生徒の家の場所や両親の職業まで小学生ながら全て把握できるほどの狭いコミュニティだった。学校の帰り道で家に着くまでに人間を1人も見かけないことがほとんど。すれ違うのはカエルやヘビ、スズメ、野良ネコ。だから、生活圏内はほぼ知っている人しかいない状況だった。

一方で、今いる表参道のCOMMUNE246、みどり荘にはさまざまな国籍、職業、パーソナリティーの人が集っている。ある日、みどり荘で以前働いていたドイツ人のマーティンの友達が来日をきっかけにみどり荘に初めて遊びに来た。翌日、みどり荘に行くとまた彼がいて、ソファーでくつろぎながらキーボードを叩いている。みどり荘はシェアオフィスなので一応お金を払っているか確認するために声をかけた。すると、自己紹介がはじまり、マーティンとの関係を話し、十数秒後には彼と握手をしていた。ポップインでの利用料のことを話したら、悪びれることもなく、渋りもせずにお金を払った。コミュニケーションはそこで終わらずに、freedom universityはとは何か、大智はどんな仕事をしているのか、自分はこんなことをしている、近くで美味しいレストランを知らないかと話は続いた。

僕は彼の一連の堂々とした態度に驚き、尊敬の念すら覚えた。自分が何者かを明確に伝え、握手をする。身体が触れることで一気に距離が縮まる。初対面でのコミュニケーションを密に取る。それは、小さな島国の日本とは異なり、陸続きゆえに侵略が繰り返される歴史があり、様々な民族が混在するため常識などというものは存在しないためだろう。相手は武器をもっていたり、敵意を抱いているかもしれない。周りには自分とは明らかに異なる人間。だからこそ、自分が何者かを明確に自覚しなければならないし、それを相手にしっかり伝えようとするのだろう。

日本人は空気を読む、察することを美徳とする傾向が強い。その分、普段、明確に伝える必要性も自覚する必要性も低い。ドイツ人の彼と対峙して、自分が何者かを強く問われているように感じた。



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