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古事記がいざなう自由

小出一冨/ファンタスティック古事記 教授

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現代の自由なんて甘い。中世や、『古事記』の時代の人々の方が、よほど人間的に自由だった。『古事記』の上つ巻(神代巻)の世界観は、とにかく素直で感情的。口でいうより手が早い、心で動く連中ばっかりなのである。心の働きも、いつもプラスに作用するとは限らない。神々もまた、その例外ではない。

伊勢内宮の御祭神のアマテラスはさぞや立派な神様だろうと思ってみても、『古事記』に描かれるアマテラスは、ひたすら内気で、クヨクヨしていて、いい所があんまりない。そのアマテラスの父にあたるイザナギは、最愛の妻を失う原因になった我が子を自らの手で殺してしまう。妻のために泣く涙はあっても、殺した子供のために流す涙は一滴もない男なのである。

また、オオナムヂという神様が出てくる。このオオナムヂは、異界で女性と出会い、一目見て恋に落ち、そのまま結ばれてしまう。古代では、目と目が合うだけで充分だったし、それを理想としていたのだ。

江戸時代、本居宣長という人物が『古事記』と出会って衝撃を受けてしまった。江戸中期は儒学最盛期の頃。倫理と論理で展開される理屈の世界だった。いってみるなら、数値が全ての物差しになっている現代社会によく似ている。当時の物差しは、ほとんど儒学の倫理と論理に基づいていた。そんな物事の定まりきった世の中に、宣長は容赦なく『古事記』を突きつける。不自由な世界に対する突破口を、彼は『古事記』の中に垣間見たのである。

今、『古事記』はどんどんとメジャーになっている。普通の本屋でも「古事記コーナー」がある。じゃあ、現代に『古事記』が読まれている理由はなんなのだろうか。意識的か、無意識かは、わからない。けれども、人間疎外の時代の中で、本来の人間性を取り戻そうとする試みの1つではあるかもしれない。『古事記』は、現代のアンチテーゼか、いは、ジンテーゼか。我々は、いづこへ向かうのだろうか。

【text:小出一冨/ファンタスティック古事記 教授】
宗教考古学者。法制史家。明治時代から続く都内の研究所で研究員を務めるかたわら、「現代を生きる羅針盤」としての歴史をテーマにした講演活動や体験型イベントも行っている。



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