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FREE from FREEDOM

隔週で発行している「自由大学マガジン」の人気のコラム、FREE from FREEDOM!そのバックナンバーをお届けします。


子どもの頃、友達の家に行って出されたお茶を飲んでびっくりしたことがある。「うちのお茶と味が違う」。料理の味付けが家庭によって違うように、お茶にも家庭の味があるように思う。そして、家を離れて自分でお茶を淹れてみてまたびっくり。どうしてお母さんのお茶はあんなに美味しかったんだろう。

ペットボトルのお茶が初めて発売されたのは1990年。それから20年以上が経って、今では数えきれないほど多くの種類が販売されている。急須で淹れたお茶と区別がつかないと言われていたり、技術はどんどん進化しているようだ。でもやっぱり急須で淹れて湯呑でいただくお茶とは何かが違う。
ペットボトルのお茶は便利だけど、お母さんが淹れてくれたお茶を飲んだ時のようなほっこりした気持ちにはどうしてもなれない。それは日本人のDNAのせいだろうか。

日本人にとってお茶はただ喉を潤すためだけのものじゃない。お茶は、家族やご近所さん、商売相手など、いろんな人間関係を育むコミュニケーションツールの一つでもあった。お天気や相手の好み、体調、話題などお茶を飲むときのシチュエーションで、茶葉を変えたり、淹れ方を変えたり、
たった一杯のお茶の裏側には、淹れてくれた人の思いやりがたくさんつまっている。そんなふうにお茶を淹れ分けるためには、どれほどのお茶を淹れる必要があるのだろう。毎日、家族のお茶を淹れていた母。家族の側で見守ってくれていた母親にしか淹れられないお茶があるのはそのためだ。

まずは一つ、自分のお茶を決めて毎日それを淹れてみたらどうだろう。普段おろそかにしがちな気持ちや、身体の素直な感覚をお茶が目覚めさせてくれるかも。そしてその一つのお茶から感じることを大切に、自分の好みの軸をつくる。相手に寄り添うための自分なりの出発点ができれば、誰かのために美味しいお茶が淹れられる日も近い。

text: 小酒ちひろ(クリエイティブチーム)

[自由大学マガジン vol.118 2014/10/1]



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