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「弱さ」の本質について、ウィトゲンシュタインを軸に思考を解体していく

FLY_ 71|近内悠太さん/「弱さ」のための所有と自由の倫理学教授

近内悠太氏(教授)

2020年3月に上梓した『世界は贈与でできている』が「withコロナ時代の道標になる」と評判になり、デビュー作ながら山本七平賞奨励賞受賞という快挙を成し遂げた近内悠太さん。2021年の4月からは自由大学で哲学の講義を担当されます。近内さんに哲学や自由大学での講義などについてのお話をうかがいました。

 

―哲学を始めたきっかけを教えてください。

哲学者ウィトゲンシュタインとの出会いが大きいのですが、もう少し掘り下げて「原体験はなんだっけ」と考えたら、小学生で小数を学んだ時にあったようです。

先生は「0.1より0.01が小さく、0.01よりも0.001はさらに1/10も小さい。そうやって数はどこまでも小さくとることができます」と言った授業の終わりに、教室の扉をパシンッと閉めて出ていきました。僕はその瞬間にショックを受けました(笑)。「どこまでも小さくなるはずなのに、壁と扉のスキマは0になったじゃないか…」と。

それから中学生の時。「一辺の長さが1cmの正方形に対角線を引くと長さは√2cm。√2は1.414213……と無限に続いていく」と習いました。心の中に鳴り響く警鐘を無視し1㎝四方の正方形を実際に描いて、斜めに線を引くと「終わりがない、完結しない数」と習ったはずなのに「ある長さ」として手元のノートに1本の線が存在してしまったのです。

もっともこれらは有名なパラドックスではありますが、その壮大な「無限」について、自分で気づいてしまったことが始まりだったように思います。そして、何よりも周囲の人間が目の前にあるそういった大問題を素通りしていることがショックでした。僕が間違っているのかもしれない、この問いや困惑は誰とも共有できないのかもしれない、という思いを抱いていました。

近内悠太氏(教授)

 

―『世界は贈与でできている』では、人のつながりについて論じていらっしゃいましたね。 

僕は常々「人と人のつながり」について考えています。
自分でも表現が難しいのですが、僕が客観的にそんな自分の“振る舞い”を分析していくと「きっとこの人(僕)は孤独なんだろうな」と判断せざるを得ないんです。親も健在で、友人にもとても恵まれている。僕は決して孤立している人間ではないのですが、僕の中には「何か」がある。その正体を探り、それに名前をつけると「孤独」になるのかなと。

そんな「孤独」な僕を、世界と結び付けてくれるのが数学です。
たとえば、古代ギリシアで哲学者によって発見されたピタゴラスの定理は、宗教や国籍などどんなバックグラウンドにも影響されず、誰もが平等に証明を辿り、同じ「風景」に至ることができます。数学には不安定要素がなく、すべてのピースがカチャンとはまる。遥か昔、名前も知らない誰かが同じようにピタゴラスの定理を使っていたと思うと、その人と僕は共通の定理でつながったようにすら感じます。数学や物理は、地球や宇宙という共通言語の上の話なので、不合理さがなく明快で心地よいのです。 

 

―ご専門であるウィトゲンシュタインについて教えていただけますか。

ウィトゲンシュタインは20世紀最大の哲学者のひとりとされています。彼の哲学的テーマを強引に一言で表せば「他者はこの世界に存在しない」というものになると思います。

著書『論理哲学論考』では、「私」の思考を超えたものはこの世界に存在せず、思考不可能なものは私の言語を超えており、それゆえ「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」と述べています。彼はおそらく自分以外の「他者」が苦手だったのではないかなと。

 

―ウィトゲンシュタインは近内さんにとってどんな存在ですか。

僕にとっては研究の対象でありながらも、「師」というよりはどこか「先輩」のような存在。ウィトゲンシュタインはとても変わった人物。また自殺願望が強かったものの思い留まり、62歳で病に倒れます。死の淵に立つウィトゲンシュタインに会うため、友人たちがこちらに向かっていると聞くと「彼らにwonderful lifeだったと伝えてくれ」と言い残して、この世を去りました。

紆余曲折あって、自分や世界と戦い続け「自分以外のものは存在すらしない」とまで言った彼が、死に際してそれらと和解したのでしょう。不幸な死を選びがちな哲学者にあって、何て幸福な死に方をしたのだろうと思います。

僕が登っている山の、その頂上はまだ見えていません。
でもあのウィトゲンシュタインが“wonderful life”と言った景色がそこからきっと見えるし、そこまでつながるルートが必ずあるはず。頂上に立つウィトゲンシュタインが、僕に向かって手を振ってくれているようにすら思えるのです(笑)。

 近内


―最近はどのような考察をされていますか。

「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」について考えています。
『世界は贈与でできている』では「贈与」を「お金では買うことができないものとその移動」と定義し、論を進めました。ですが、贈与は受取人がいて初めて成立するので、贈与を厳密に捉えると、差出人が自(みずか)ら意図的に行うことができないのです。つまり生徒がいるから先生が現れ、子どもができて親になるごとく、受取人がいることで「自(おの)ずから」差し出すことが可能となる。可能となると言うか、結果として贈与が成立することになるわけです。

「自ら」と「自ずから」は、同じ漢字を使うのに性質が異なります。みずから=自発的に、おのずから=自然に。このあたりについて竹内整一氏の『「おのずから」と「みずから」』等を読みながら検討しています。また哲学では「自分」や「他者」についての論考は比較的あるのですが「あなた」という2人称については決して多くはない。こちらも今後検討していけたらと思っています。

 

―自由大学ではどんな講義をされる予定ですか? 

最初はみなさんと「弱さ」について考えてみたいです。
贈与のスタートは「人間は弱く、贈与によって他者を守らざるを得なかったから」と著しました。「弱さ」は人や社会にとっての紐帯です。「贈与」や「自らと自ずから」などを紐解きながら、人間の弱さについて探っていこうと考えています。

まだ詳細は検討中なのですが、ほかに「私的所有」についてや、「邂逅」も論じる余地がありそうです。思いがけない出会いと定義される「邂逅」ですが、ウィトゲンシュタインによれば、予測できないものは語れないはず。それにもかかわらず「邂逅」なんていう壮大な名が与えられている点だけを見ても考察するに値するなと。

 近内


―近内さんにとって「自由」とはなんですか? 

自由とは「わたし」を正しく悟ること。
自分で何でもできることが自由だと思いますか? 自力でなんとかしようとしても、自分の想定の範囲内でしか動けません。想定の範囲を超えられない人生なんて、不自由でつまらないと思いませんか。

では、自力ではたどり着けないところまでどうやって行くのか。

それは、他者に導かれて行くしかないのです。生徒がいるから子どもがいるから、その他者の存在があって初めて先生や親になれるのと似ています。

誰かに突き動かされ、自分の想定していた枠から思わず飛び出してしまう。そうして初めて想定を超えた自由にたどり着けるはずです。他者との交わりのない自分1人では、本当の自由にはたどり着けません。

 

<取材後記>

ご著書も「読みやすい」と評判ですが、難しい内容でも、聞き手に正しく伝わるよう、軽快な語り口で多彩な例を引き出しながらお話してくださった近内さん。受講生のゴールは「自分で考えられるようになること」だそう。近内さんとお話をしたあと、子どもの頃に疑問に思った「世界の成り立ち」について、もう一度考えてみたいという欲求が湧いてきました。

 

取材と文:川口裕子 写真:深井次郎  

 

<プロフィール>

近内悠太氏(教授)

教育者、哲学研究者。
1985年神奈川県生まれ。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング刊)が、第29回山本七平賞 奨励賞を受賞。紀伊國屋じんぶん大賞2021でも第5位を獲得するなど注目されている。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践中。2020年4月より自由大学にて教授を務める。

Twitter @YutaChikauchi
note https://note.com/yutachikauchi



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