
「得意料理は何ですか?」
そう問われる瞬間が、誰の人生にもある。
武蔵野うどんですね。
埼玉県育ちのぼくは、間髪入れずにそう答えてきた。
小学生の頃からそうなのです。うどんと言えば、高速道路のサービスエリアのうどんや駅の立ち食いうどん。もしくはスーパーで買ってきて家で茹でる乾麺のうどん。いわゆる普通の「量産型うどん」しか食べてこなかった幼いぼくにとって、手打ちの武蔵野うどんは衝撃だった。
硬いし太いし長いし、グミみたいなコシ。「田舎っぺうどん」という店に家族でよく行ってました。いつも行列のできるその店ではうますぎて、これはどうやって作ってるの?と無邪気な子供を利用して聞いて、店内で職人さんが粉をこねたり、足で踏んだりしている様子を見ていた。
「簡単じゃね?」と思って、家で父と作ったら、本当に簡単だった。店の味そのもの。あんなに美味しいものが、こんなに簡単にできる。
こんなに簡単なのに、みんな行列してる。
並んでる時間があるなら、自分で作れるのに。
いつか本当に路頭に迷ったら、最後の手段、うどんを振る舞えばいい。みんな喜ぶし、お返しに誰かが助けてくれるだろう。そんな最後の手段があるから、大人になって勇気を出して、レールを踏み外したキャリアを選択できたと思う。
うどんが守護神なのだ。
うどんだけではない。餃子も得意だ。
こんなことを言ったら、たぶん傲慢野郎に思われるけど、お店よりも、自分でつくった餃子が一番美味いとこっそり思ってる。絶対に人前では言わないけど。謙虚な常識人に見られたいからだ。

「この辺で、いいお店って知ってます?」
「どこがいいですかね、実は、外食しないからあまり店知らないんですよ」
「自炊派なんですね、えらい」
みたいな会話の流れがある。つい気を許した人に
「いえ、自炊がいいのは、自分でつくった料理が一番うまいからです」
ポロッと言ってしまうと、
(ははーん、わかったぞ、痛い人か)
察した顔をされるんだけど、
自分で好きな味付けをするんだから、美味いのは当たり前だと思う。味見をしながら、自分好みに調整するわけで。
でも、他者がつくった料理の魅力は「その手があったか」という新発見に出会えた時ですよね。その発想はなかった!自分では絶対に思いつかない。
たとえば餃子って野菜と肉が基本だと思い込んでたんですけど、包めば何でも美味いって知ってましたか?
あるとき、友人宅での餃子パーティーで、チョコやチーズを皮に包んで食べたんです。甘い餃子。ぜんぜん餃子じゃなくて、お菓子カテゴリーの何かなんだろうけど、美味しかった。
何でも合うの。何でも包んで焼けば美味い。
肉まんがあれば、あんまんもあるでしょ。餃子の皮であんこを包んでもうまい。
名もない新種の料理がまだまだあるんです。ぼくらは粉についてまだ何も知らない。
なぜ急にこんな思い出話をし始めたかというと、暇だからです。
そして、新講義をリリースしたからでもあります。
「粉もの料理研究室」
小麦粉?
日本人なら米食え、米。
もちろん、それに異論はありません。ただ、お米の価格がニュースになるたびに、「これからどうなるんだろう」と食の未来を考えることも増えてきました。
人類の歴史を見れば、ひとつの食材に頼りきるのはリスクでもあります。環境が変わり、気候が変動すれば、ある作物が不作になることは珍しくありません。
そんなときに共同体を支えてきたのが、食の多様性でした。「好き嫌いなく何でも食べなさい」じいちゃんもばあちゃんも口を酸っぱくして言ってたのは、生き延びるためなのです。
ひとつがダメでも、他にいくらでもある。しかも、どれも美味い。
粉もの料理は、まさに多様性の象徴です。小麦粉をはじめ、米粉、とうもろこし粉、そば粉… 世界中の文化がそれぞれの「粉」を主役にしてきました。
生地にすれば、どんな具材も包める。のせられる。焼けば香ばしく、茹でればもちもち。麺ならツルツル。国境を超え、文化を超えて、粉ものは人を笑顔にしてきました。
日本でも、うどん、餃子、お好み焼き、パン、ピザ。食卓の中心に「粉もの」が並ぶとき、人は自然と集まり、話がはずみます。すべてを包み込み、人々を守ります。
「粉もの料理研究室」では、その知恵を現代にアップデートしながら学んでいきます。お店で買うだけでは味わえない、手づくりの楽しさ。素材を選び、こねて、発酵させて、焼き上げるまでのプロセス。そこにある自由さとクリエイティビティは、料理を超えて「生き方の練習」にもなるのです。
いまは世界中で、食のリスクが高まっています。輸入に頼る国、気候に揺さぶられる農業。
だからこそ、私たち一人ひとりが「食のレパートリー」を豊かに持つことが、生きる知恵になります。あなたの地域で採れる旬のものを包んでみましょう。