贈与と利他
贈与とは、「自分の大切なものを、見返りを求めることなく誰かに与えること」とされています。ですが、僕らの行為(あるいは好意)はそれを受け取ってくれる人が現れて初めて与えることができます。与えること/受け取ることについて考えます。
新講義
正解のない問いに向き合うための決断と勇気の哲学
※同時開催のリアル講義をオンライン聴講できるクラスです。
※感染対策や遠方在住理由によるオンライン希望に応えました。
利他的な優しさが世界を救う
行き過ぎた資本主義、環境悪化… たくさんの道徳的混乱に満ちた世界で、私たちには何ができるでしょうか? さまざまな論者が「利他の行動」をキーワードに挙げていて、地球規模でSDGsの観念はひろがりました。ただ「本当に他者のためになっているか」は常に自省する必要がありそうです。
「優しい人になりたい」と思ったとき、僕らは一体何から始めればいいのでしょうか? 僕らは普段、何気ない会話の中で「優しい」という表現を使っていますが、本当にそれは明確な輪郭を持った言葉なのでしょうか? 「優しい」という言葉は一体どのような振る舞いや性格や、あるいは心の状態を指しているのか。
本講義は 「優しさ」に代表される、利他について考えていく講義です。
分断を乗り越えるための、他者理解と洞察力を
目の前にいる、大切な誰かのために何かを為すには、まずは「利他とは何か」を考えるしかありません。
困っている他者を救うこと、あるいは、救いたい、助けたいと願うこと。これは人間本性の発露です。しかし、ここには困難が潜んでいます。他者を救うためには、その他者を理解しなければならないからです。言い換えれば、他者を救うという意図的な行為には、「他者を理解する」という前段が含意されています。利他の難しさは、他者理解の難しさなのです。
どういうことか?
「ありがた迷惑」という言葉がありますが、これは、利他的な行為と思って行った振る舞いが、それを受け取る側にとっては善意の押し付けと感じられる出来事を指します。ありがた迷惑を受けると僕らは口ごもってしまいます。うまく受け取ることも、さわやかに断ることもなかなか難しい。そのように宙づりにされることによって、気が重くなるわけです。
相手をきちんと「理解」することをスキップしてしまっては、利他は為しえません。
あなたは何を求めているのか?
どう困っているのか?
何に悩んでいるのか?
これらの問いに対して仮説的に考えながら、いわば、おっかなびっくりしながら、ためらいながら、他者に接するところに利他は自ずから発生します。この人はこういう人だ、という決めつけから遠く離れた地点に、利他はあるはずです。
それゆえ、利他について知る・考えることは、「エンパシー」(比喩的に「他人の靴に足を入れること」と表現される能力)について知る・考えることに繋がります。エンパシーは、直接的な訳語としては「共感能力」と訳されていますが、果たしてエンパシーは本当に共感のことなのか? という問いも本講義の射程の一つです。
さて、先ほどの「ありがた迷惑」についてですが、それは失敗した利他であり、善意に見せかけて相手の行動をコントロールし、支配しようとする意図が隠れています。こういったコミュニケーション上のトラブルを回避するためにも、あるいはあなた自身が誰かにありがた迷惑を行ってしまわないためにも、利他についての考察が必要となります。大切なひとに寄り添うこと、そのひとを思いやること。ここには「その他者を理解する」という契機が不可欠なのです。
人生の局面でよりよい判断をするために倫理を学ぶ
現代は、良くも悪くも「コミュニケーション能力」の時代です。進化心理学が教えるところによると、現代の僕らとほぼ同じ身体と脳を有していた数万年前のホモ・サピエンスたちはせいぜい150人程度の共同体で暮らしていました。したがって、そもそも生活習慣や風土、価値観の異なる他者と頻繁に交易(コミュニケーション)することはありませんでした。いわば、少人数から成る「閉じたコミュニティ」の中で、一生を過ごしていたわけです。
重要なのは、僕らはそんな黎明期のホモ・サピエンスたちと同じ脳を持っているという点です。つまり、僕らの脳は、現代のような、高度に文明化され、情報化した生活環境に適応していないのです。
生きづらいのも当然なのです。例えば、僕らの心の働きも認知機能は、SNSでのコミュニケーションに最適化されて進化したものではありません。こんなに多くの他人に囲まれて生活できる脳の構造ではないということです。だから、人間関係や家族との関係に疲れるのは、当たり前なのです。
生物学者エドワード・O・ウィルソンは『嘘と孤独とテクノロジー』の中で、現代における人間存在について次のように象徴的に語っています
「人類は石器時代の感情と、中世の組織と、神のようなテクノロジーをもっている」
脳は数万年前からほとんど進化しておらず、僕らのデフォルトの世界認識と行動パターンと身体は、現代社会の生活にはマッチしていません。だから、人類という存在は、根源的に環境とのミスマッチを常に抱えているのです。
「環境との不調和」をハンディキャップあるいはdisorderと呼ぶのならば、僕ら人類は皆等しくその理性と精神にハンディキャップとdisorderを背負っています。なぜなら、僕らの理性と精神は、数万年前の自然という環境に適応するために獲得された形質だからです。
「正解のない問い」への答えを各自が言語化する時代
「なんだか生きづらい…」が時代のキーワードになっています。本やネットを探せば「答え」を教えてくれる論客もたくさんいますが、どうにも状況は変わっていないように思えます。それもそのはず、倫理観とは人から提供される類の知識ではなく、自分で参加して作り出すものだからでしょう。違和感やモヤモヤをなかなか言語化できないのは、語彙力や表現力がないからではなく、思考の深め方がわからないからかもしれません。
仕事でもプライベートでも、私たちはいくつものコミュニティの一員として生きています。「誰かが決めてくれれば自分はそれに従う」という受動的な態度では、コミュニティに貢献することはできません。能動的に自分の意見を提示して、相手の意見を聞いて議論を進める「対話力」を一緒に磨いていきましょう。
利他に関する考察を通して、コミュニケーションの本質を考え、僕らの言語と心の構造に迫ります。それゆえ、本講義は、利他学であり、同時に、コミュニケーション論でもあり、言語哲学、心の哲学でもあります。
(第1期募集開始 2022年8月23日)
第1回
贈与とは、「自分の大切なものを、見返りを求めることなく誰かに与えること」とされています。ですが、僕らの行為(あるいは好意)はそれを受け取ってくれる人が現れて初めて与えることができます。与えること/受け取ることについて考えます。
第2回
「異文化理解」という言葉がありますが、「いま・ここ・私」とは異なる価値観を有していると考えられる他者を、一体どのようにすれば理解することができるのでしょうか? 20世紀を代表する哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」というアイデアは、他者理解について考える上で重要です。第3回以降の講座を展開する上で必要な概念なので、第2回では「言語ゲーム」的思考を紹介し、検討します。
第3回
言語ゲームという視点を元に、「他者の心」とは一体何なのかを考えます。その中で、心に関する素朴な常識が打ち崩され、心に関する認識上の転換が起こるはずです。
第4回
誰かの相談に乗ってあげる、苦しみの中にいる他者に対して何かをする、傷ついた人をケアすることは、利他と大きく関係している行為です。しかし、その際、こちらの決めつけや思い込みを持ってその他者に関わることはケアを阻み、すれ違いを生みます。「寄り添い」、「思いやり」といったものは、行為者側には決定権がなく、それを受け取った相手がそれを感じてくれたときに初めて存在できる行為です。第4回では、エンパシーとはどのような能力なのかを一緒に検討していきます。
第5回
これまでの講義をまとめ、「言語化する」とはどういうことであり、どのような効用を持っているのかを考えます。
※各回、以下のような構成となります。
前半1時間程度:教授からの講義(聴講)
後半1時間程度:教授も交えたディスカッション(聴講)・質疑応答(チャット使用)