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「ピンチはチャンスなんだ」と人は言う。
だが、この光景を前にして、だれがその言葉を口にすることができるだろうか。
「この苦しみは、いつかあなたのためになるから」
この陳腐な決まり文句を簡単に発することができる人は、そうはいないはずだ。



東京で心配している「落ち込む日本経済」、「不謹慎バッシング」、「イベントの自粛」、「買占め」、政府や東電への責任追及。何を騒いでいたんだろう。ここに立つと、全てどうだっていい。すべてを流された広い荒野に立つと、自分の鼓動以外の雑音が消えた。何事もなかったように静かな波音と、頬に流れる冷たい雨のほかには、時が止まってしまったのではないかとさえ思える。
「できることなら健康に長生きがしたい」と、東京で放射能を気にして、雨にあたるのを避けていた小心者の僕が、降りしきる雨の中に立ち尽くしたまま、全身濡れていることにも気づかなかった。小さいことはどうでもよいと思えてくる。

遠くを見渡すと限りなく非日常の光景だが、足元の瓦礫に目を落とすと、そこにはたしかに日常の欠片をみつけることができる。名前入りの卒業証書、赤線をひいた受験参考書、ドライヤー、ピアノ、子供用マウンテンバイク、制服の少女が友人と顔を寄せあう笑顔の写真。
大切な人を失う経験はだれにでもあるだろう。ぼくにだってある。世界の終わりかと思うほどのあの喪失感が、これだけ一度に襲ってきたらと想像しかけて懸命に止める。セブンイレブンがあったというこの場所には、もとから更地だったのではないかと間違えるほどに、基礎も何も残されていない。ここで働いていたアルバイトの若者もいただろう。

この地点よりも海岸から車で10分ほど奥に自衛隊の基地がある。その自衛隊のヘリが最初の揺れから津波までに一機も空に飛び上がり非難することができなかったと聞く。それほどの津波の恐るべきスピード。太い鉄筋も簡単に曲げ、建物も基礎からさっぱりなかったことにしてしまう破壊力。もし当時、自分がこの区域にいたら助かる方法を想像することができない。

ぼくたちは、すべてから学び、後進に教えるために生きている。しかし、これほどに大きな自然からの教えに、何を学ぶことができるのか。情けないけれど、呆然と立ち尽くすのが精一杯だ。

■今回のぼくのミッションは写真を撮ることなのに
「良い写真を撮るには、心に衝撃を与えたものにシャッターを切ることだ」このように有名な写真家から教わったはずが、どうしても目をそらしてしまう。衝撃が強すぎるものに、シャッターを切るのが怖かった。
人間には二種類いる。驚いて後ろに下がる者と、驚いて前に出る者。前に出る者だけが良い写真を撮れるのだとしたら、ぼくにはその能力がないようだ。
・セーターやシャツが木にひっかかっている。これらは人が着ていたものだという。津波に飲まれると服がすべて剥ぎ取られる。
・転がっている車には運転者の状態を示すのか「○」「×」「?」のマークが記されている。
・ガソリンを待つ車の列が2キロ以上。その列に一人、自転車に赤い灯油いれを縛り、寒空のした4時間も待つおじいさんがいた。
このような光景を、けっきょく指を動かせず、写真には収められず。

■2:46で時を止めたままの野蒜駅の時計
あの揺れから、ぼくも12日間、沈黙してしまった。
あまりの揺れに驚き「すっげー地震!本棚倒壊」とツイッターでつぶやいたそのあとは、ただ沈黙することしかできなかった。単純作業ならなんとかできたが、企画や執筆など思考力をようする仕事はまったくできなく締め切りに苦しんだ。本を4冊書いてるぼくも、ツイッターのたった140字が書けなかった。

ある科学者が発見した、こんな事実がある。一本の木が昆虫や火事や嵐などで傷つくと、
それを保護するための液体が分泌される。そして一本の木が傷つけられると、そこからずっと遠くにある木も保護の液体が分泌されるというのだ。
木と同じように、人間もみんなつながっているのかもしれない。だとすると、これを読んでいるあなたも今回の危機を経験しているすべての人がつながっている。現地では、「死者は10万人規模になるかもしれない」と危惧している方もいたが、それだけ大きな悲劇だ。日本中、もしくは世界中の人が痛みを感じていても不思議ではない。

■大きな数字のひとつひとつには、かけがえのない物語がある
高橋さん(50代、男性、仮名)は、ぼくのインタビューの途中に電話連絡が入り、「弟が見つかった。よかった」と喜んだ。「よかったですね。助かったなんて奇跡ですね」 ぼくも喜んだ。「いや、助かってはないんだよ。でもうれしいんだ。遺体も見つからない人がたくさんいるんだから」。高橋さんは「大丈夫だよ、悲しんでなんかいられない」といいながら、ふらふらと女子トイレに入っていった。しばらくして間違いに気づいて、男子トイレに入りなおしたが、明らかに動揺していた。動揺して、当たり前だ。
「頑張ろう、乗り越えよう」というスローガンが、みんなが気丈に振舞うことを強制しているように見えることがある。これが「いつまでも悲しんでないで」というプレッシャーになってはいないだろうか。ただ自分たちの生活を、東京の生活の基盤を、日本経済を立て直したいだけになってはいないか。

被災地の惨状をみて「まるで自然対人類の戦争の後のようだ」と同行した黒崎輝男は言ったが、「がんばれ」と連呼する人たちは、己の痛みをまぎらわせるために銃を乱射し続ける兵士のようにみえる。その流れ弾が東北の仲間の背中を貫いてはいないか。
「悲しんでいい。本当につらい出来事だ」とまわりと分かち合い、静かに浸りきることを許してあげて欲しい。いつか自然に浮上できるまで。これは直接的に被災していない東京の人たちに対しても同じだ。感受性の強い人たちは、自分のことのように痛みを感じて苦しんでいる。
機械だったら、壊れたら一刻も早く直すのが正解だ。でも、われわれは人間だ。感情があり、その補修にはそれぞれにスピードが異なる。どうか悲しいことがあったときは、悲しさを抑えこまない自由をあたえてほしい。

もちろん被災地のライフラインは最速で復旧させないといけないが、日本経済が落ち込む、自社の売上げが落ちる、給料が落ちる、日本の借金が増える、電力が足りない・・・などはどうだろう。これだけのことがあったのだ。落ち込んで当たり前だ。「なければないで、その中で工夫して楽しくやっていこう」という方向にできないのか。今までの生活レベルを下げればいいじゃないか。今までが過剰だったのだ。本当に大切なものにまだ気づかないのか。そんなに拡大、現状維持しなきゃならないか。
冷静に考えて、身内が亡くなったばかりの人間に、「がんばれ。乗り越えろ」などと誰が声をかけられる。それは「これだけ支援しているのだから、早く立ち直れ」ということではないか。ただでさえ、「自分はまだましなほう、悲しんでなんかいられない」と感情を押し殺し、つくり笑顔で耐える被災者がいるのだ。

これからきっとメディアを通して、もう一度人生を生き直そうとする人たちのドラマをいくつも見ることになるだろう。多くの人がこれまでの価値観に疑問を持ち、自分が本当にやりたいことを模索し、生活を大きく変える決断をするだろう。
今回ほど大きな危機ではないにしろ、誰もが人生のある時期に、さまざまな問題や苦しみに直面することになる。それがいつであっても、どんな問題であっても、自分は決して一人ではないと信じられる。つらいときは人に助けを求めてもいいんだ。困ったときはだれかが助けの手を差し伸べてくれると信じられる。そんな世の中になってほしい。そんな大人の互助精神を子供たちに見せたい。「本当に困ったら、だれかが助けてくれるから安心して自由に人生を生きなさい」といえる素敵な世の中になってほしい。

多くの人が言うように、この出来事は長い目でみたら日本が再起する好機になるだろう。
ただし、ぼくはこの「再起」の意味を「経済的に成長すること」だとは思っていない。
「精神的に豊かに、自由になること」だと思っている。そしてその方法を考え続けていくのが、ぼくの役目だ。
自然と仲良く生きよう。人類がコントロールできないものをつくらない。
自然とは戦争をしない。無条件降伏する。無条件降伏は、きっと「無条件幸福」なのだ。


■取材概要
【実施日】
2011.3.30-31 (津波から19日後)
【目的】
HEARTQUAKEプロジェクトのための現地視察、取材、関係者との打ち合わせ、拠点確保の打診を行いました。
【参加者】
HEARTQUAKEプロジェクトの賛同者(クリエイター、アーティスト、建築家、NPO代表、経営者、自由大学運営、仙台出身メンバーなど十数名)
【交通手段】 
車2台
・今回使用したのは登録済みの「緊急車両」で高速代が軽減できたのと、給油が優先できた。
・東京原宿を夜中24時に出発し、仙台には朝4時半に到着。
【地域】
仙台若林区ー東松島、松島一帯
【天候】
雨、くもり、一時ヒョウ
【メモ】
・食料は東京から持参。
・ガソリンは高速道路のスタンドか持参で。現地では給油できない。
・被害の激しい地区ではコンビ二もやっていないくトイレがないので水分を控えた。
・長靴を持っていくと良い。泥がすごいので。
・車の汚れは覚悟。外側は泥がはねて汚れ、内側は靴についた泥で汚れる
・現地に詳しいコーディネーターがいた方が良い(深く踏み込めるし、遭難の危険もある)
【これから】
ベースキャンプを張る拠点の確保はできそうなので動ける設備環境を整え、必要な人材を集めます。
(文:深井次郎@fukaijiro 仙台市若林区にて記す)



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